2014年1月27日月曜日

生前のこと

前回の投稿「死後のこと」の続編です。

22歳の時に初めて「福音」を説明され、理解した時、何が私にとってグッド・ニュースだったかというと、

1)天国に行ける
2)信仰の対象がはっきりした
3)生きる指針が与えられた

の3点だったと思います。1)に関しては前回の投稿、「死後のこと」をご覧ください。2)、3)は関連していると思いますが、こういうことです:

それまでは年始には神社に初詣に行き、旅行先でお寺に行けば何となく手を合わせ、お守りを買ったりもらったりし、困ったことがあると「神様、仏様、、、」と祈ったりしていたけれど、正直に言えばよくわからずに、そこまで期待せずに、「良しと思われることはとりあえずやっておこう」くらいの思いで色々なモノを「信仰」していたのでした。

それが聖書で啓示されている神様、特にイエス・キリストの生と死と復活を通してはっきりと知ることのできた神様一本に信仰の対象をしぼれたのです。絶対的な存在を知る喜び。これは、自分の感覚に頼りながら相対的な社会に生きる不確かさに不安を覚える者にとって大きな恵みです。

そして、本気で信じられる本当の神様を知るということは、その神様の良しとされることを良しとし、悪とされることを悪とする、一本筋の通った生き方をすることができるということです。22歳で私はまだ未婚、もちろん子供もいませんでしたが、子育てをする上で、そのような信仰を土台にして善悪を教えていけるってありがたいな、と思ったのを覚えています。

それから月日は流れ、今私は35歳。もうすぐクリスチャン歴13年になります。この間、「クリスチャンで良かった~」と思ったこと数え切れず、「クリスチャンでなかったらどう生きていたんだろう」と思ったこともまた、数え切れません。私の福音理解も深まって、今は上述の3点以外にも、いっぱいいっぱい「グッド・ニュース」があると思っています。

もし「魂が救われて死後に天国に行けること」だけがキリスト教の伝える良い知らせだったら、「やりたい放題生きて、死ぬ直前にクリスチャンになるのが一番お得」的な発想になってしまうと思いますが、そうじゃないです。クリスチャンとして生きることの一日、一日が恵み、私は22歳でクリスチャンになったけれど、もっと早くに神様を知れていたら良かった、というのが正直なところです。

そんな私がいつも考えているようなことを本にしてくださっている牧師先生がいました。ということで、今日は本を一冊お薦めして終わります。
 
秦 賢司牧師著作の「お得なクリスチャン」という本です。
 
聖書を初め、キリスト教の本はキリスト教書店にあります。お近くのキリスト教書店にどうぞ一度足を運んでみてくださいね。
全国キリスト教書店住所録は、以下のサイトでご覧になれます: 
http://www2.biglobe.ne.jp/remnant/syoten.htm

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和馬がこよなく愛するくまのぬいぐるみ。彼はこれ一筋。
アイラは愛する家族が沢山。彼女にとってはどの子も大切。選べません。

教会にも。母性本能、強いです。

2014年1月20日月曜日

死後のこと

昨年12月に、教会で死後のことをテーマにショート・メッセージをしました。10分の話なので実はそんなに「ショート」ではないので、お時間のある時にお読みください。(ブログ用に多少編集してあります。)
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「ママ、人は死んだらどうなるの?」
娘のアイラが 3歳になる直前にこんな質問をしました。
(Mummy, what happens when you die?)
ああ、この子もこういうことを聞くようになったんだな、成長したな、と思うと同時に、「死後のことについて知りたい」という思いが、古今東西、人間には普遍のテーマとしてやはりあるのだな、と再確認した思いでした。
実は私も、このことについては小さい頃によく考えたのです。夜寝る前にあれこれ考えて、ある時は私も、アイラと同じように、母に質問しました。「ねぇ、人は死んだらどうなるの。」
肝心の母は、「さぁ。どうなるのかしらねぇ。」と答えたように記憶しています。
私たちがこのような問いをする時、もちろん、死体の処置のことを聞いているわけではありませんね。「ああ、人は死んだらね、火葬されて骨だけ残って、骨はお墓に埋められるんだよ。」なんてことは聞いてないのです。私たちはどうしても「死んで終わり」と割り切れないので、このような疑問を抱くのでしょう。輪廻転生にしても天国、地獄にしても、何か死んだ後にも続いていくのではないかという思い、あるいは、死後に行く世界があるのではないかという思いが、人間の心の中にはあるように思います。
クリスチャンになって聖書を読むようになって見つけた言葉ですが、旧約聖書に、こんなことばがあります。「神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。」(伝道者の書3章11節)
神が人の心に永遠への思いを与えられた ― 死後のことについて人間が普遍的に考える理由を、聖書から教えられた思いでした。

科学が発達して科学的な思考が好まれるようになった今でも、私たちは天国や地獄があると想定済みのような会話をよくしますよね。小さい頃に、嘘をついたら地獄のえんま大王に舌を引っこ抜かれるぞ、と脅かされませんでしたか。あるいは、こんな経験はありませんか。私が小学校低学年の時に母と公園で遊んでいると、6年生くらいの男子数人が子猫をいじめていたのです。残酷ないじめ方で「やめて!!」と割り込みたかったけれど相手は身体の大きな男子生徒。その時母が「やめなさい。そんなことをしていたら地獄に落ちるわよ。」と叱りつけたんです。私は「本当にそうだ。あんなことをしていたら地獄に行く。」と子ども心に母は正しいと思ったのを覚えています。日本では、昔話の中で主人公が地獄に一瞬落ちるような話があったり、お寺に地獄絵があったりして、日本人は皆結構リアルに地獄を思い描けてしまうのではないでしょうか。
また逆に、誰かが亡くなった際には、「天国に行ったんだよ。」とか「天国で見ていてくれるよ。」、「天国でまた会えるよ。」などと慰めたりします。

私も自然と、良い人は天国に行き、悪い人は地獄に行くという思いを持っていました。天秤のイメージでしょうか。「最後の審判」みたいな席で、その人の生前のすべての行いが秤にかけられて、善行の方が重ければ天国に行き、悪行の方が重ければ地獄に行くというようなイメージを漠然と持っていたように思います。
この天秤モデルは確かにフェアというか、当然な気がするし、地獄を恐れると善行が促されるでしょうから、社会的にもいいのかな、と思うかも知れません。
でもこれだと、死ぬまでどっちに行くか分からないし、実は問題が沢山あります。善行しやすい恵まれた環境に生まれる人もあれば、これで非行に走らないほうが不思議、というような劣悪な環境で育つ人もいます。また、表面的には善行であっても動機が悪い場合はどうか、とか、逆に困っている人を助けるために富む人からちょっと何か盗りました、みたいなタイプの盗みは悪行なのか、とか、善行を促すとはいっても自分で悪いと気付かない悪行はストップできないでしょうし、一生懸命善行を心掛けて一歩一歩進んでいた人が最後の最後にすごい試練にあって、一グラムくらい悪行の方が重くなった場合と、対して努力もしなかったのにそういった試練に合わなかったために善行の方が少しばかり重かった人の場合では不公平ではないか、とか、考えればいっぱい問題があるのです。

私はこういう問題まで小さい時に考えていたわけではないんですが、成長するにつれてどうなっていったかというと、死後のことについての理解が深まるどころか、段々と考えないようになっていってしまった、というのが本当のところです。現代社会では死を身近に感じられませんし、この種のことは知り得ようもないのだ、というような不可知論的な考えになっていたのだと思います。だから逆に「死後の世界はこれです!」と断言するような人がいたとすれば、かえって反発を覚えるというか、断言してしまえる人というのは「ちょっと自分とは違う世界に生きている人」のように思っていました。
でも聖書は、これまた淡々と、「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」(ヘブル人への手紙9章27節)と言っているんですね。死ぬこととさばきにあうことが決まっているなら、やはり死と裁きにどう向き合うか、これは別世界の人だけでなく、やっぱり私たち全員の問題なのです。
このような私が、 22歳の時に、ある本を読みました。その本には、聖書は何を教えているのか、ということが書いてあったんですが、私にとっては目から鱗の本でした。聖書は天国への行き方を実にはっきりと、それも一つだけ、示しているんですね。そしてそれがもう、これしかないな、これが正しいな、これが真理だな、と私に思わせる天国への生き方だったのです。
聖書によると、人が天国に行くか行かないかは、天秤で決まるのではなかったのです。イエス・キリストの十字架が決め手だったのです。人は皆罪人だと聖書は教えます。たとえ天秤モデルだとしても、「私の天秤の悪行の方に何も、一グラムも乗ってません!」と言い切れる人はいないでしょうから、これは納得だと思います。でも「善行を重ねることでは罪を帳消しにできない」、「人は行いによっては救われない」と聖書は言っていたのです。ではどうするのか、というと、神様の方が解決策を備えて下さった、というのが聖書の教えです。神ご自身がイエス・キリストという人となってこの世に生き、罪を一つも犯さないで神の御心のままに生き抜いた末に、自ら罪人の身代わりになって十字架で罰を受ける。この十字架の上で人類の罪がすべてイエス・キリストの上にかぶせられ、神の罰がイエスの死刑という形で断固として執行されたので、イエスを信じる人は神から赦される、と。神は罪を水に流したのではありません。公正な、正義の方である神は悪を良しとされません。でも、愛である神は、罪のゆえに人が滅ぶのを望まれない。このジレンマとも思える状況を、全知全能の神はどう解決されたか、それが十字架です。罪をしっかり罰することと罪人を救うことは、自らが人となって罰を代わりに受けるという形で完璧に解決されたのです。
私は、「この種のことは知り得ようもないのだ」と、死後のことについて考えないようになっていった、と先述しましたが、確かに自分の頭の中で考えていただけでは、知り得ようもないのです、神が人となったなんて。自らを十字架に磔にするほどに神が人を愛されているなんて。そんなことは思いつきもしませんでした。でも聖書はそれを知らせているのです。
「まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」 神はこれを・・・私たちに啓示されたのです。」(第Ⅰコリント2章9、10節)
キリスト教は啓示宗教です。神が啓示されたことを信じています。人が考え出したことではありません。

私が頭に思い描いていた天秤モデルでは、ちょっと考えただけでも問題がいっぱいありました。死ぬまでどっちに転ぶか分からない、というのもその一つでした。でも聖書の言うように、人が天国に行くかどうかがイエス・キリストの十字架にかかっているのだとしたら、それはもう歴史的に終わった事実ですから、天国行きは信じた時点で確定するのです。この「確定している」というのが、クリスチャンが希望を持って、喜びを持って生きれる理由です。不安はないのです。心配はないのです。これを聖書は、イエス・キリストの福音、と言っています。福音、幸福の音、グッド・ニュースという意味です。

この福音を信じるためには、聖書が信頼に足る書物か、という根本的な問題がクリアされないといけないでしょう。聖書の信頼性に関しては、またいつか時間がある時に改めて投稿します。それまで、皆さんが御自分で聖書を手に取り、聖書が何を言っているか、御自分の目で確かめていただきたいと思います。そして、聖書の教えと真っ向から取り組み、「悔い改めて福音を信じなさい。」というイエス様の呼びかけに応答してくださるようにと願っています。どうかこのブログがその一助になりますように・・・
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和馬の部屋で室内サッカーをするのが流行っています。イングランド代表気分の子供達。

2014年1月14日火曜日

新年!

遅ればせながら、皆様、新年明けましておめでとうございます。

あの悪名高き40日咳の後(結局抗生物質でも完治までは至らず、延々と「かなりよくなった咳」をしていましたが・・・)、そのままクリスマス前の超多忙期に突入して、ホッと息つく間もなくクリスマス翌日からは日本の実家に帰省したりしていたため、ブログを長期間ほったらかしにしておりました。

更新を楽しみにチェックしてくださっている方から心配のメールをいただいたり、大変失礼致しましたが、家族みんな元気にしています。

そして、昨日から、アイラが幼稚園に通い出しました。平日の日中の「自分だけの時間」!水曜日は9時に送り出しても11時20分に降園する短さですし、アイラのいない間に聖書の会があったりするので暇になるわけではありませんが、でも(!)、今まで眠い目を擦りながら夜にしていた聖書の会の準備やら何やらを午前中に片付けられるというのは、夢のようです。ブログにもこうして戻って来れました。ということで、今年度は年間投稿数50回を目標にしていますので、どうぞよろしくお願いします。(少なくとも週1回更新したい、という意気込みです。)

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今日の写真は姪のローズとアイラ特集!

ローズも1歳半を過ぎ、うちで預かることも。女の子同士、仲良く遊んでくれるので手がかかりません。家事の合間に覗いたら二人でカーテンの後ろに隠れて楽しそうにやってました。
クリスマス・イブ。こちらの祖父母からシンデレラのドレスをもらったアイラがローズにキスしているところ。
これは先週、教会の外を二人で散歩中の写真。
教会近くのカフェで。年の近い同性のいとこ、いいですね。
 
 
 
 

2013年11月28日木曜日

四十日咳

喉の奥にチリチリと怪しい風邪の兆候が突如現れたのは、忘れもしない10月20日の夜。
翌朝から咳開始。
まず和馬がかかり、アイラにうつっていた風邪をとうとうひいてしまった、と思いつつ、単なる風邪だと甘く見て、特に何もせず、休みもせずに日常生活を続けていたら、咳も鼻もとことん悪くなりました。
ついに先々週は最低限以外すべて予定をキャンセルして静養に努めたにも関わらず、一向に改善の見込みなし。さすがに4週間風邪が治らないと、仕事にならないだけでなく、気分的にも落ち込んでくるし、全身運動みたいな咳で疲労困憊状態に。
よし、医者に行こう、と思って行ったのが11月20日。咳をしだしてちょうど1ケ月目です。
「先生、何で治らないんですか。よくなりたいです。」と訴えたら、
「気管支炎ですね。気管支炎はちょっと静養したくらいでは治りません。抗生物質を飲まないと。」と言われました。
「もう少し早く来て抗生物質をもらっていたら、今頃は元気だったんですね。」と言ったら、
「いや、あなたはちょうど良いタイミングで来ましたよ。これより早く来ていたら、もう少し様子をみましょう、と言っていました。でもあなたは1ケ月も咳をしているから、抗生物質を出しましょう。」ですって。

医者になかなか行かない自分をちょっと責めていたけれども、「なぁーんだ、良かった。」と思う反面、「ひぇ~、これは一大事!」と思いましたよ。1ケ月も咳をしないと抗生物質をもらえないなんて!!英国の医療は無償だし、薬を出し過ぎるのも問題なんでしょうけど、いやはや、この国で生活している限り、もう二度と気管支炎になってはならない、ときつく自分に言い聞かせました。1ケ月も咳をするなんて、もうできません。考えるだけで疲れます!

でも、抗生物質ってすごいんですね。あれだけ止まらなかった咳が、抗生物質を飲み始めて一週間、ほとんど出なくなりました。百日咳ならぬ、四十日咳で終わりそうです。やれやれ。

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今月頭、義母60歳の誕生日で夫の実家に行ってきました。この時も、私は咳しまくりの、迷惑な嫁でした。。。

2013年11月9日土曜日

和装のアイラ

今日は、私が32年前に七五三で着た着物をアイラに着せて写真を撮りました。着付けの知識が無いので正しく着せられたか不明ですが、馬子にも衣装。雨上がりの公園で沢山撮りました。
明日教会に着せて行ってアイラの健やかな成長を神様に感謝したいところですが、ちょっと場違いになりそうなのでやめておきます。。。

 
 
 
これは32年前の姉と私。


2013年10月28日月曜日

遠足

昨日、教会の大学院生のグループと一緒にバースに行ってきました。ローマ浴場跡、バース大僧院、ロイヤル・クレセントと、有名どころを観光。電車に乗っての日帰り旅行は、家族だけだとしないので、こういう機会があって子供たちにも良かったと思います。

子供用の音声ガイドもあり、和馬は2時間以上かけて、ローマン・バスをゆっくり堪能しました。
こちらがバース・アビー(大僧院)。
 
和馬の持っているカメラは、レゴブロックでできています。日本の友人から贈られた彼の宝物。最近、どこに行くにも持って出かけています。
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以下2枚、レゴカメラによる和馬撮影の写真です。
 
バースにいたくまのパディントン。
 
楽しそうに二人で何をやっているかと思えば、「集合写真」を撮っていました。
 
 

2013年10月14日月曜日

確率

私が担当している聖書の会の先週のテーマは預言の成就でした。旧約聖書には、来るべきメシヤ(救い主)に関する預言が約300あります。どこで生まれるか、どのような役割を果たすか、いつ頃来るか、何をするか、それに対する人の反応はいかなるものか、などなど、実に様々な預言が旧約聖書には記されています。

そして新約聖書では、イエス・キリストの生涯が紹介され、旧約聖書の預言がイエス・キリストの上にことごとく成就したことが論証されています。

多くの預言がたった一人の人生の上に全て成就する確率と言えば、それはもう天文学的な数字になります。

私は父の仕事の関係で、高2、高3をイギリスの現地校で過ごしました。16歳まで浜っ子だった私の英語力ですぐに文系の科目を履修できるわけもなく、苦手な数学を4科目も履修していたあの頃。その内のひとつが統計学で、週に授業が8時間くらいあって、大袈裟ではなく、電卓を使って確率の計算ばかりしている時期がありました。

例えば、「100グラム入りで売られている菓子の袋が大量に在る中から、サンプルを採取したところ、サンプルの平均の重さは99グラムでした。両端0.5%の正規分布(?)を用いて、この菓子の平均の重さが実際は100グラムではない確率を出しなさい。」とか何とか、こんな感じの文章問題がありました。ちょっと違うかも。。。

でもまぁとにかく、こういった類の文章問題ではまず、「菓子一袋の重さが100グラムではない」という仮説を立てて計算していって、その確率が例えば0.0045とかでてくると、それは0.5%以下なので、この仮説は棄却できる、したがってこの菓子の重さは平均100グラムと言ってよい、みたいな解答をしていたと思います。

何が言いたいかというと、キリスト教の信仰を吟味していた時に読んだ本で、こんなくだりがあったのです。「メシヤに関する預言は数多いが、それがたとえ8個しかなかったとしても、その8個が、人類史上あるひとりの人生の上に全て成就する確率は、10の17乗分の1の確率である。」と。

私は「この時代に聖書なんて本気で信じられるのかな。」、「理性や知性を押し殺さないと聖書の記述は受け入れられないんじゃないかな。」、「科学と信仰は相容れないんじゃないかな。」と思っていました。でも、確率の話を読んで、はっと思わされました。

この確率の問題に取り組むなら、「イエス・キリストはメシヤではない」という仮説は当然棄却されなければならない。イエス・キリストはメシヤであったと結論付ける方こそ、自分の理性、知性と矛盾しない、と。

この預言の成就と、復活の事実を示された時に、私は聖書を本気で信じることができました。理性と知性において何ら妥協したのではなく、むしろ、自分の限られた理性と知性を総動員して考えた結果、聖書の記述は真理だと結論付けました。22歳のときです。(復活の事実に関しては、2012年6月11日の投稿、「Before & After」をご参照ください。)

昔の私も含め多くの人が、聖書と本気で向き合う前に、聖書は考えてみるに値しない本だと決めつけていると思います。聖書の中には人を自由にし、生かし、励まし、力を与える真理が詰まっているのに。日本やイギリスは自由に聖書を読める恵まれた国です。皆さんが聖書を手にしてくださることを心から願いつつ・・・久しぶりの長~い投稿を終わります!

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スポーツに目覚めた和馬。土曜日に活動する地元のちびっこサッカークラブに入りました!ゴールキーパーがいいんだそうです。