今日は、病気について。
「なんで人生には、病気を始めとする、沢山の苦しみがあるの?」という問いは、人間ならば誰でも一度は抱くでしょう。ブッダも、この問いを追及すべく、修行の旅に出たと思います。ましてやクリスチャンであれば、あるいは、キリスト教の信仰を吟味してみようと思っている人であれば、この疑問に、「愛であられる神様がおられるのならば」という前置きがつくわけです。
私も今まで色々考えてきました。そして最近、大病では全然ないけれど、夫が割とすぐに病気になるので、このテーマは私の中ではかなり大きなものでした。病気の本人もすごく辛そうで、何か「試練を通されている」っぽく見えるし、この間は、一瞬、「何か告白していない罪があるからなんじゃないのかしら。」って思ってしまいました。でも、そう思ったすぐ後、3月に自分でした投稿、「聖書の視点」を思い出しましたよ。だから、「本当に人間って『苦しみ=裁き』って考えがちだなぁ。あの話を聞いたときに、違うって学んだはずなのに!!」と、自戒しました。
そんなやり取りが自分の頭の中であったことがまだ新鮮だった先週、我が家での聖書の会で、このみことばが、心に迫ってきました:
「病気にかからず、すこやかでいなさい。」(マルコの福音書5章34節)
これは、12年もの間、ひどい病気で苦しんだ女性に対して、癒しの奇跡が行なわれた後に、イエス様がおっしゃった言葉です。「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。」
なんて優しい、憐れみにあふれた言葉でしょう。これを読んで、私は思いました。「みこころ」の病気は無い!と。神様のみこころは、常に、私たちが病気にかからず、すこやかでいることだ、と。でも、私たちは、罪の結果、本来あるべきではない、どこか狂った、堕落した世界に生きているから、病気は起きてしまう。神様は、病気の細胞が分裂するとき(?)に、一々超自然的な介入をして、奇跡を起こして病気が発生しないようにはされない。言い方を変えると、「雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。」(マタイの福音書10章29節)という聖句で見られるような、「許可的なみこころ」でもって、病気の発生をもちろん把握しておられるし、お許しになるが、「積極的なみこころ」では、私たちに健康でいて欲しいと願っておられる神様なのだ、と。
でも、この女性が、ひどい病気だったからこそイエス様のもとに来たように、病気という、本来「苦しいこと」、「悪いこと」をも、神様は益に変えてくださるのだ、と思いました。
「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」(ローマ人への手紙8章28節)
病気にかかると、かかった故に得られる益も確かにあります。忍耐だったり、謙遜だったり、普段の健康に対する感謝だったり、治してくださる神様に対する感謝だったり。信仰が強められたり、病気になったからこそ信仰を持った、という人も沢山いるのです。
でも、「よし、ブラッシュ木綿子にもっと忍耐を身に付けさせるために、この病気にさせよう」というようなみこころは無い。そうではなくて、「我が娘、ブラッシュ木綿子は、かわいそうに病気になってしまったが、忍耐を得た、という形で、この病気も益に変えよう」、これが神様のみこころではないか。
こんな考えが、心にストンと落ちた先週の聖書の会でした。
これから人生経験を積んだり、聖書をもっと深く学んでいく中で、病気に関するこの考えは、もしかして進化するかも知れません。そして、私の限られた知性と限られた人生の枠の中で、神様のみこころを正しく理解することはできないでしょう。でも、今の時点では、このように聖書から教えられて、夫が今度病気になった時の祈り方も変わってくる気がしています。「神様。あなたのみこころのように、彼をすこやかにしてください。でも、この病気をも、あなたが益にしてくださると信じているので、感謝します。病気で辛い最中の彼も、あなたの優しい愛を感じて励まされますように。そして、早くよくなれますように。」こんな感じで心穏やかに祈る妻でありたいと思います!!
2012年7月5日木曜日
2012年6月18日月曜日
Star of Life
西欧の医療スタッフの制服や、救急車に、杖に巻きついた蛇の絵が入った、青い星印が付いているのをご存知ですか。私は、イギリスの救急車についているのは、以前から気付いていました。でも、調べたところ、西欧では結構一般的に付いているそうです。ということで見てみたら、和馬のおもちゃの救急車にも付いていました!
救急隊員の胸にも、ちゃんと付いていますよね。このマーク、スター・オブ・ライフと言うそうです。私は、以前から、これを見るたびに、イエス・キリストに思いを馳せていたのですが、これも、調べたところ、聖書からではなく、ギリシャ神話の医療の神である、アスクレーピオスに由来するのだそうです。クリスチャンの私としては、勝手に「さっすがキリスト教の伝統のある国は違うわ~。救急車にまで聖書の教えが浸透してる!!」なんて思っていただけに、今回調べてかなりがっかりしたのですが、まぁ、仕方がない。気を取り直して、なぜ、このマークを見て私がイエス・キリストに思いを馳せていたのか、投稿したいと思います。
荒野の旅にがまんできなくなった民は、神とモーセに文句を言った。そこで神は民の中に毒蛇を送り、多くの人が死んだ。切羽詰まった民は、罪を認め、蛇を取り去ってくださるようにと祈った。神はモーセに、青銅の蛇を一つ作り、それを旗竿の上に付けるようにおっしゃった。モーセは言われた通りにし、もし蛇が人をかんでも、その者が青銅の蛇を仰ぎ見ると、生きた。
これは、イエス・キリストが生まれる、約1500年前の話です。毒蛇に噛まれても、旗竿にかかげられた蛇を仰ぎ見れば、致命傷から救われた。この旧約聖書の話を知っていたので、スター・オブ・ライフを見て聖書から来ているのだろうと思ったわけです。人の命を救うために日夜活躍する救急車にはぴったりですものね。
ここで「人の子」とは、イエス様ご自身のことです。旧約聖書でメシヤ(来るべき救い主)が「人の子のような方」として言及されているので、イエス様は自分のことを、よく「人の子」と呼んでいました。「人の子もまた上げられなければなりません。」とは、つまり、「メシヤである私も、十字架の上に上げられなければなりません。」ということです。つまり、「モーセが荒野で蛇を上げ(て、仰ぎ見た人の致命傷が癒され)たように、十字架に上げられた私を仰ぎ見る者は、罪の致命傷を負っているが、救われて生きる」、という意味でおっしゃったのです。これで、イギリスで救急車を見るたびに、私がイエス・キリストに思いを馳せていた理由がお分かりになったでしょうか。
もう一度、ヨハネの福音書3章14節から16節を引用して、今日の投稿の真面目な部分を終わります:
「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。
家具付きのアパートなので、大きなソファがリビングにあります。ソファで手作りアスレチックを作って遊ぶのが、子供たちの最近のお気に入り。
話は旧約聖書のモーセの時代から始めないといけません。イスラエルの民が、奴隷として働かされていたエジプトの国を、過ぎ越しの事件をきっかけにして脱出した話は、4月9日月曜日の投稿、「Good Friday が GOOD なワケ」に書きましたので、どうぞご覧ください。エジプトの国を出た後のイスラエルの民はどうなったかというと、「約束の地」(今のイスラエルの国がある辺り)に向かって、長い長い荒野の旅をします。モーセは、イスラエルの民のリーダーです。荒野には十分な食べ物も水もありません。そこで、神様がマナという不思議な食べ物を天から降らせ、養ってくださるのですが、イスラエルの民はしょっちゅう文句を言います。今日注目したい箇所も、正にこのような状況で起こった話です。旧約聖書の民数記21章4節から9節に書いてある記事を要約すると、このようになります:
それはさておき、この話を、イエス様が生前、取り上げておられるのです。これは、新約聖書の、ヨハネの福音書3章14節に書かれていますが、イエス様はこうおっしゃっています:
「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。」
それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは、御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちをもつためである。」
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2012年6月11日月曜日
Before & After
「ビフォア―・アンド・アフター」と言えば、ダイエットをする前と後の写真とか、住宅をリフォームする前と後の写真を紹介する時に、テレビや雑誌でよく使われますね。私たちはその劇的な変化にびっくりしたり、感心したりするわけです。
今日のお題のビフォア―・アンド・アフターは、イエス・キリストが復活する前と後の、弟子たちの変化についてです。
私の通うセント・エブス教会で、毎週木曜の朝に開かれている母親のための聖書の会で、この間マルコの福音書の14章を読みました。そこには、イエスが復活する前の弟子たちの様子が鮮明に描かれています。私たちにとっては、まさに「ビフォア―」の写真と言えます。
マルコの福音書の14章の後半で、イエスはユダヤの宗教指導者によって逮捕されます。これまでにも、イエスは何度か弟子たちに、自分が捕まり、死刑を宣告され、さんざん嘲弄され拷問された上で、実際に死刑を執行されて死に、その3日後に復活すると告げていました。でも、弟子たちにはその真意が分かっていなかったようです。イエスをキリスト(旧約聖書で預言されていた救い主)と信じ、告白していた彼らですが、ローマによって征服されていたユダヤ民族として、もっと政治的な意味での「救い主」を期待していたようなのです。旧約聖書にも、救い主は「永遠の王」、「全世界の主権者」として描かれていたりするので、無理もないでしょう。神から遣わされたこのイエスによって、劇的なクーデターが成功し、ユダヤ民族がローマに代わって全世界を支配するようになるかも知れない、あらゆる奇跡を行なって、その権威と力を証明してきたイエスなら、こんな夢物語も実現するかも知れない、そんな期待があって当然だったのかも知れません。だから、イエスの言う「迫りくる死」も、そんなクーデターの最中に起こる悲劇で、まさに英雄としての死なのだと思っていたのではないでしょうか。弟子の代表格であるペテロは、「私は一緒に死ぬ覚悟です!」と豪語しています。今まで、全てを捨ててイエスについてきたのです。弟子たちの心は燃えていたでしょう。ペテロは本気で最後までお伴する気だったのです。
それがどうでしょう。実際にイエスが逮捕されると、「みながイエスを見捨てて、逃げてしまった。」と聖書にあります。ある者は、着ているものを捕まれたのでしょうか。それを脱ぎ捨てて、裸になって逃げた、とありますから、相当必死です。「自分も捕まっては大変」、「自分も殺されては大変」と、一目散で逃げたのです。また、あれだけイエスと運命を共にしようと息巻いていたペテロはというと、イエスを知らないと3度も言い、イエスとの関わりを全否定するのです。
ユダヤの指導者に逮捕されたイエスは、自分を神と同等にしたということで、冒涜の罪で有罪になりますが、それではローマの裁判では罪にならないので、暴動の首謀者、納税拒否の扇動といった、ローマの指導者にとっても見過ごすことのできない罪をねつ造され、偽証されて、最終的に死刑の宣告を受けます。逃げた弟子たちは、いつローマの当局が、あるいはユダヤの指導者たちが、自分の所にもやってきて、イエスと同罪に定めるかと、びくびくしていたに違いありません。ヨハネの福音書に、弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて、鍵がかけられ、ドアが固く締められていた様子が書いてあります。
ここまでが、「ビフォア―」です。復活の事実を知る前までの弟子たちは、弱く、恐れており、保身に走っています。
弟子たちの「アフター」の様子を知るには、聖書の「使徒の働き」という書物を見るのが一番です。長くなるのでこちらはあまり触れませんが、「使徒の働き」から得られる弟子たちの印象は、大胆で、怖いもの知らず、死をも恐れずイエスを主と告白し、宣教に明け暮れるといったところでしょうか。実際、多くの弟子は、復活を主張し、イエスを主と告白する信仰の故に、迫害され、殺されています。
この違い!何たる違い!
人はそんなに簡単に変われません。「ビフォア―」と「アフター」の間には、弟子たちをこうも変えるほどの、「何か」があったはずなのです。
その「何か」が「復活」なのです。
普通では考えられない死からの復活。簡単には信じられない甦り。でも、「ビフォア―」と「アフター」の写真が、イエス・キリストの復活を裏付けている、とは思いませんか。殉教した弟子たちを見てください。人は、嘘のためには死ねないですよ。復活を本当に信じていたからこそ、死んだのです。
私は、ある本を読んでクリスチャンになりました。その本では、この弟子の変化を始め、復活の証拠が書かれてありました。そのおかげで、私は復活を信じることができました。復活が信じられると、聖書の他の記事も全て受け入れられました。復活を予告し、まさにその通り復活したとなれば、イエスは自分で言っていた通り、父なる神とひとつであったのだろう。神様なら、奇跡を行なえて当然。神様なら、処女から生まれても不思議はない。むしろ、普通に生まれたら普通の人間に過ぎない。などなど。それまでは「信じる」なんて思ってもいなかった聖書の記述が、心から信じられました。この本は英語の本なので、いつか、許されるなら、翻訳したいな、なんて思っています。
「もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われる」(ローマ人への手紙10章9節)
*************************************
2月の投稿で、アイラは何でも履いてしまう、と書いた記憶がありますが、それは今も変わりません。「暑い!」と言ってすぐパンツ一丁になってしまう兄のズボンを見つけては、スカートの上から履くアイラ。何でこんなに嬉しそうなんでしょう。。。
母性本能のかたまりみたいなアイラ。毎日、「ベイビー」を寝かしつけたり、本を読み聞かせたり、せっせと母のまねごとをしています。
学校でスプラウトを栽培。夕飯のサラダに入れてね!
今日のお題のビフォア―・アンド・アフターは、イエス・キリストが復活する前と後の、弟子たちの変化についてです。
私の通うセント・エブス教会で、毎週木曜の朝に開かれている母親のための聖書の会で、この間マルコの福音書の14章を読みました。そこには、イエスが復活する前の弟子たちの様子が鮮明に描かれています。私たちにとっては、まさに「ビフォア―」の写真と言えます。
マルコの福音書の14章の後半で、イエスはユダヤの宗教指導者によって逮捕されます。これまでにも、イエスは何度か弟子たちに、自分が捕まり、死刑を宣告され、さんざん嘲弄され拷問された上で、実際に死刑を執行されて死に、その3日後に復活すると告げていました。でも、弟子たちにはその真意が分かっていなかったようです。イエスをキリスト(旧約聖書で預言されていた救い主)と信じ、告白していた彼らですが、ローマによって征服されていたユダヤ民族として、もっと政治的な意味での「救い主」を期待していたようなのです。旧約聖書にも、救い主は「永遠の王」、「全世界の主権者」として描かれていたりするので、無理もないでしょう。神から遣わされたこのイエスによって、劇的なクーデターが成功し、ユダヤ民族がローマに代わって全世界を支配するようになるかも知れない、あらゆる奇跡を行なって、その権威と力を証明してきたイエスなら、こんな夢物語も実現するかも知れない、そんな期待があって当然だったのかも知れません。だから、イエスの言う「迫りくる死」も、そんなクーデターの最中に起こる悲劇で、まさに英雄としての死なのだと思っていたのではないでしょうか。弟子の代表格であるペテロは、「私は一緒に死ぬ覚悟です!」と豪語しています。今まで、全てを捨ててイエスについてきたのです。弟子たちの心は燃えていたでしょう。ペテロは本気で最後までお伴する気だったのです。
それがどうでしょう。実際にイエスが逮捕されると、「みながイエスを見捨てて、逃げてしまった。」と聖書にあります。ある者は、着ているものを捕まれたのでしょうか。それを脱ぎ捨てて、裸になって逃げた、とありますから、相当必死です。「自分も捕まっては大変」、「自分も殺されては大変」と、一目散で逃げたのです。また、あれだけイエスと運命を共にしようと息巻いていたペテロはというと、イエスを知らないと3度も言い、イエスとの関わりを全否定するのです。
ユダヤの指導者に逮捕されたイエスは、自分を神と同等にしたということで、冒涜の罪で有罪になりますが、それではローマの裁判では罪にならないので、暴動の首謀者、納税拒否の扇動といった、ローマの指導者にとっても見過ごすことのできない罪をねつ造され、偽証されて、最終的に死刑の宣告を受けます。逃げた弟子たちは、いつローマの当局が、あるいはユダヤの指導者たちが、自分の所にもやってきて、イエスと同罪に定めるかと、びくびくしていたに違いありません。ヨハネの福音書に、弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて、鍵がかけられ、ドアが固く締められていた様子が書いてあります。
ここまでが、「ビフォア―」です。復活の事実を知る前までの弟子たちは、弱く、恐れており、保身に走っています。
弟子たちの「アフター」の様子を知るには、聖書の「使徒の働き」という書物を見るのが一番です。長くなるのでこちらはあまり触れませんが、「使徒の働き」から得られる弟子たちの印象は、大胆で、怖いもの知らず、死をも恐れずイエスを主と告白し、宣教に明け暮れるといったところでしょうか。実際、多くの弟子は、復活を主張し、イエスを主と告白する信仰の故に、迫害され、殺されています。
この違い!何たる違い!
人はそんなに簡単に変われません。「ビフォア―」と「アフター」の間には、弟子たちをこうも変えるほどの、「何か」があったはずなのです。
その「何か」が「復活」なのです。
普通では考えられない死からの復活。簡単には信じられない甦り。でも、「ビフォア―」と「アフター」の写真が、イエス・キリストの復活を裏付けている、とは思いませんか。殉教した弟子たちを見てください。人は、嘘のためには死ねないですよ。復活を本当に信じていたからこそ、死んだのです。
私は、ある本を読んでクリスチャンになりました。その本では、この弟子の変化を始め、復活の証拠が書かれてありました。そのおかげで、私は復活を信じることができました。復活が信じられると、聖書の他の記事も全て受け入れられました。復活を予告し、まさにその通り復活したとなれば、イエスは自分で言っていた通り、父なる神とひとつであったのだろう。神様なら、奇跡を行なえて当然。神様なら、処女から生まれても不思議はない。むしろ、普通に生まれたら普通の人間に過ぎない。などなど。それまでは「信じる」なんて思ってもいなかった聖書の記述が、心から信じられました。この本は英語の本なので、いつか、許されるなら、翻訳したいな、なんて思っています。
「もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われる」(ローマ人への手紙10章9節)
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2月の投稿で、アイラは何でも履いてしまう、と書いた記憶がありますが、それは今も変わりません。「暑い!」と言ってすぐパンツ一丁になってしまう兄のズボンを見つけては、スカートの上から履くアイラ。何でこんなに嬉しそうなんでしょう。。。
母性本能のかたまりみたいなアイラ。毎日、「ベイビー」を寝かしつけたり、本を読み聞かせたり、せっせと母のまねごとをしています。
学校でスプラウトを栽培。夕飯のサラダに入れてね!
2012年5月4日金曜日
牛乳と卵
牛乳と卵 ― アレルギーの話ではありません。
私たちに、乳牛や鶏を始めとして、家畜が与えられていることのすごさを、考えた事ってありますか。
なんで唐突にこんな事を書いているかというと、昨日行った聖書の会で、詩篇8篇を読んで、中学生の時の記憶が甦ってきたからです。
詩篇8篇には、こんなくだりがあります:
「人とは、何者なのでしょう。
あなた (神様) がこれを心に留められるとは。
人の子とは、何者なのでしょう。
あなたがこれを顧みられるとは。
あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、
これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。
あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、
万物を彼の足の下に置かれました。
すべて、羊も、牛も、また、野の獣も、
空の鳥、海の魚、海路を通うものも。」
カトリックの学校だったのに、進化論だけを当然の真理のごとく教えていた学校に通った私。でも、ある授業中に、先生の話もそっちのけで、こんなことを考えていたのを、今でもはっきり覚えています。それは、「人間だけが他の生き物と違い過ぎている!ただ偶然の進化を繰り返してきただけの産物だったらどうして???」ということ。
乳牛って、なんで自分の子牛の分以上に、まるで人間のためだけに生産するようにミルクを出し続けるの?鶏って、何で栄養たっぷりの卵を産み続けてくれるの?なんで、こんな、「人間のため」に存在してくれる、「家畜」というカテゴリーの動物がいるの??
ビーバーのダムや蜘蛛の巣もすごい「建築」だけど、人間だけが、なんで鉄筋コンクリートとかで建築してるの?人間って何なの?
別に誰にも尋ねなかったのですが、人間の存在が本当に本当に不思議でした。
22歳の時にクリスチャンになって、聖書の一番初めの書物、「創世記」を改めて読んだ時、まさに、目から鱗の体験をしました。神様が、世界を順々に創造したとき、人間を一番最後に、特別に造ったんですね。「あぁ、そうなんだ。やっぱり人間は他の動物とは違うんだ。」と、中学生の私が抱いていた疑問に、聖書から答えをもらいました。人間が必要とする食べ物や、住む環境なども全て考慮して、世界を造られた神様。そして、その世界を、人間が良く管理するように願っておられる神様。環境を破壊したり、動物を虐待したりするのは、人間の思い違いだけれど、やっぱり、人間は特別な存在なんだ、と、妙に納得したのです。
でも、私のような疑問を、既に神様にぶつけていた人もいたわけですよね。それが、詩篇8篇の、「人とは何者なのでしょう」です。私のように牛乳と卵から派生したというより、天地万物を造られた偉大な神様が、人のことを気にかけてくださる、そのすごさに不思議を感じていたわけですが。。。
************************************
私たちに、乳牛や鶏を始めとして、家畜が与えられていることのすごさを、考えた事ってありますか。
なんで唐突にこんな事を書いているかというと、昨日行った聖書の会で、詩篇8篇を読んで、中学生の時の記憶が甦ってきたからです。
詩篇8篇には、こんなくだりがあります:
「人とは、何者なのでしょう。
あなた (神様) がこれを心に留められるとは。
人の子とは、何者なのでしょう。
あなたがこれを顧みられるとは。
あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、
これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。
あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、
万物を彼の足の下に置かれました。
すべて、羊も、牛も、また、野の獣も、
空の鳥、海の魚、海路を通うものも。」
カトリックの学校だったのに、進化論だけを当然の真理のごとく教えていた学校に通った私。でも、ある授業中に、先生の話もそっちのけで、こんなことを考えていたのを、今でもはっきり覚えています。それは、「人間だけが他の生き物と違い過ぎている!ただ偶然の進化を繰り返してきただけの産物だったらどうして???」ということ。
乳牛って、なんで自分の子牛の分以上に、まるで人間のためだけに生産するようにミルクを出し続けるの?鶏って、何で栄養たっぷりの卵を産み続けてくれるの?なんで、こんな、「人間のため」に存在してくれる、「家畜」というカテゴリーの動物がいるの??
ビーバーのダムや蜘蛛の巣もすごい「建築」だけど、人間だけが、なんで鉄筋コンクリートとかで建築してるの?人間って何なの?
別に誰にも尋ねなかったのですが、人間の存在が本当に本当に不思議でした。
22歳の時にクリスチャンになって、聖書の一番初めの書物、「創世記」を改めて読んだ時、まさに、目から鱗の体験をしました。神様が、世界を順々に創造したとき、人間を一番最後に、特別に造ったんですね。「あぁ、そうなんだ。やっぱり人間は他の動物とは違うんだ。」と、中学生の私が抱いていた疑問に、聖書から答えをもらいました。人間が必要とする食べ物や、住む環境なども全て考慮して、世界を造られた神様。そして、その世界を、人間が良く管理するように願っておられる神様。環境を破壊したり、動物を虐待したりするのは、人間の思い違いだけれど、やっぱり、人間は特別な存在なんだ、と、妙に納得したのです。
でも、私のような疑問を、既に神様にぶつけていた人もいたわけですよね。それが、詩篇8篇の、「人とは何者なのでしょう」です。私のように牛乳と卵から派生したというより、天地万物を造られた偉大な神様が、人のことを気にかけてくださる、そのすごさに不思議を感じていたわけですが。。。
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2012年4月28日土曜日
愛されたから、許されたから
オックスフォードでの毎日が、本当に忙しくなりました。疲れてブログまで手が回らない夜が続きましたが、今日は頑張れそうです。
私と夫は、JCL(ジャパン・クリスチャン・リンク)というキリスト教の団体の宣教師ですが、昨日、JCLのニュースレターが郵送されてきました。JCLの他の宣教師のニュースなどが載っており、いつも興味深く読みますが、巻頭のヒュー・ブラウン宣教師のことばに目が留まりました。
「神様は何かを始められると、その働きと、その働きに召した人に対して、責任を取ってくださる」
このことを、ブラウン宣教師は何度も実感したとのこと。私と主人も、オックスフォードに来たばかり。この地での、私たちを使っての伝道の働きは、神様が始められたことなんだ、と思っていたところだったので、ブラウン宣教師のタイムリーな言葉に、とっても励まされた日でした。
聖書にも、こんなみことばがあります:
「あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださる」(ピリピ人への手紙1章6節)
このブラウン宣教師、元テロリストです。キリスト教の信仰を持って、全く変えられた人で、今は神戸で働いておられます。
彼が2002年1月19日に、仙台市のイズミティ21という所で行った講演と、その後のインタビューが載っているページをインターネットで見つけました。とても良かったので紹介します。是非ご覧ください:
このページの作成者やブラウン宣教師にインタビューを行った方たちは、揃って「自分は信仰を持っていないが・・・」とされていますが、皆さん、何か良いものをブラウン師からいただいた、とおっしゃっています。
「憎しみを超えて」という題の講演ですが、ブラウン宣教師が、「許すことはできる。自分のために許すのだ。」と言い切っている点について感想を述べておられるインタビュアーの方が多くありました。許すこと、愛することを、本当の意味でするのは、本当に難しいですね。私なんて、一番愛しやすいであろう夫に対して、「許せん!!」とか鼻息を荒くして怒っていることの何と多いことか。この低レベルの「許し」から、肉親を殺された相手を許すような、非人間的レベルな「許し」まで、「許す」ことを可能にするカギが、聖書にあると、私は信じています。まず、神様が本当に自分を愛してくださったから、自分も愛することができる。まず、神様が本当に自分を許してくださったから、自分も許すことができる。双子の弟を目の前で拷問された元テロリスト、ブラウン宣教師が「許すことはできる」と断言し、実際に実行できているのは、神の愛と許しを自分自身が受けているから。
「許しがたきを許し、愛しがたきを愛す」、これは普通にはできないことです。イエス・キリストが十字架にかかって、私の罪のために死んでくださった。そのおかげで自分は許され、天国に行ける。この「福音」に現されている神の愛と許しの力が、普通にはできないことを可能にしてくれるのですね。
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「ニーニ、学校頑張って!」登校前の兄と妹。
金曜日。学校帰りの兄とお茶するため、パブに来た妹。
2012年4月9日月曜日
Good Friday が GOOD な ワケ
イースターの今日、セント・エブス教会に初めて正式に出席してきました。金曜日に近くの教会で Good Friday(受難日)の合同礼拝があったので、教会の方には会っていましたが、セント・エブスの礼拝に出席したのは今日が初めてでした。とても大きな教会で子供も沢山。生き生きと元気な教会でした。教会の人の名前と顔を覚えるのが大変そうです。
さて、イエス・キリストが復活したイースターを良き日として祝うのは当然としても、イエス・キリストが十字架で死んだ金曜日を良き日として記念するキリスト教会。なぜ、と思う方もいらっしゃるでしょう。色々な説明があるでしょうが、今日は、過ぎ越しのいけにえの子羊との関連に絞って、少し、キリストの福音の良さを紹介できたら、と思います。
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キリストが生まれたのは今から約2000年前。
さて、イエス・キリストが復活したイースターを良き日として祝うのは当然としても、イエス・キリストが十字架で死んだ金曜日を良き日として記念するキリスト教会。なぜ、と思う方もいらっしゃるでしょう。色々な説明があるでしょうが、今日は、過ぎ越しのいけにえの子羊との関連に絞って、少し、キリストの福音の良さを紹介できたら、と思います。
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キリストが生まれたのは今から約2000年前。
そのキリストの生まれる更に1500年くらい前、イスラエルの民が、奴隷として生活していたエジプトを出ました。奴隷は財産ですから、エジプトの王はイスラエル人を絶対に去らせたくない。でも、そのエジプトの王に「もういい。お前たちは早く出ていけ。」と言わせた出来事がありました。それが「過ぎ越し」です。
これは何かというと、「もし、エジプトの王がイスラエル人を去らせなければ、今夜、エジプトの地ですべての長男が死ぬ。」という宣告が神様からありました。イスラエル人もエジプトの地にいますから、長男が危険です。でも、神様はこうもおっしゃいました。「今夜、私の使い(天使)がエジプトにある全ての家に入って、長男を殺すが、もし、今日のうちに、傷のない子羊を一頭殺し、その血を家の門につけておくなら、その血のついている家には、天使は入らず、過ぎ越して行く。」
このような宣告を聞いても、エジプトの王はイスラエル人を去らせませんし、神様を信じないエジプト人は何もしないで寝ました。一方、イスラエル人は、一軒残らず、言われた通りに子羊を殺して、その血を門につけて寝ました。
その夜、この恐ろしい災いが現実となり、エジプトの全家で激しい泣き叫びが起こりましたが、主の使いはエジプトにいたイスラエル人の家を過ぎ越し、死人がないようにしてくださいました。そして、この災いによって懲りたエジプトの王は、イスラエル人を去らせたのです。
これが、今から約3500年前に起こった、「過ぎ越し」の事件です。それ以来、イスラエル人は毎年、この日を記念して「過ぎ越しの祭り」を行って祝ってきました。「死ぬよ」と宣告されていた者が死なずに済んだ幸い。それは、傷のない子羊が代わりに死んだことによって与えられました。
今から約2000年前に人として生まれ、罪を犯さずに完璧な人生を送られたイエス・キリスト。彼が十字架に付けられて死んだのは、この過ぎ越しの祭りの最中でした。これは、偶然ではありません。神様は、旧約聖書の中でずっと、「罪を犯したら人は死ぬよ」と宣告されていました。「でも、「過ぎ越し」と同じように、神である私自身が、傷のない、完璧な子羊を用意するよ。」とも約束してくださっていました。「その子羊が、あなた達の代わりに、あなた達の罪を背負って、いけにえとして死ぬから、あなた達は死ななくていいよ。」これが、旧約聖書で与えられていた約束でした。
神様によって与えられた子羊こそ、イエス・キリストです。
イエス・キリストが十字架で死ぬことで、旧約聖書で預言されていた約束が成就しました。
「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たち主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」(ローマ人への手紙6章23節)
「死ぬよ」と宣告されていた者が死なずに済む幸い。罪をゆるされ、天国に入れる約束をいただく幸い。それが、イエス・キリストが十字架で死んだことによって私たちに与えられたので、イースターの前の金曜日は、この上なくGOODな金曜日なのです。
カトリックの女子校時代に、意味も分からず何度も歌っていたミサの曲。
♪
「神の子羊、世の罪を除きたもう主よ。
我らに平安を 与えたまえ」
♪
クリスチャンになった時、この歌詞を思い出しました。今日の投稿を読んで、この歌詞の意味が少しでも分かるようになった、という方が一人でもいらしたら、私もこの上なくハッピーです。
(興味のある方は、イザヤ書53章を読んでみてください。キリストが十字架にかかる約800年前に、イザヤという預言者がキリストの十字架のことを克明に預言していたのが分かります。)
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今日、和馬とアイラは、礼拝の後にイースターエッグ探しをしました。卵の形をした小さなチョコレートが副牧師宅の庭に沢山隠されていて、二人とも大喜び。アイラは食べてないけど、カラフルなお宝に大満足の模様でした。二人が、チョコでなく、神の子羊を喜ぶイースターが来ますように!
2012年3月9日金曜日
聖書の視点
昨日、息子の幼稚園で月2回ほど行われている、お母さんのための聖書の会がありました。
私の大好きな会。
昨日は幼稚園の理事をされている牧師先生を招き、話を聞きました。先生は昨日投稿した「出エジプト」から話を始めて、「裁きと印」という聖書の視点について教えてくださいました。とても良かったので自分のことばで紹介したいと思います。(自分なりにまとめました。あくまで文責モメ子です・・・)
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エジプトの奴隷となっていたイスラエルの民を、エジプトから脱出させる際、神様はエジプトに10の災いをくだされた。(ナイル川の水が血になったり、蛙などが大量発生したり、雹が降ったり、ついには子供が死んだり。)人間は悪いことが起こると、「悪いことをしたから裁かれているのだ」という発想をしやすい。でも聖書の出エジプト記をよく読むと、これら10の災いは、裁き(神罰)というよりも、印(しるし、サイン)として扱われている。つまり、神がおられること、神がパワフルであられること(やろうと思えばエジプトの王など一瞬で殺すこともできた全能の方)、神が正しい方であられること、神が従うべき方であられること、などをイスラエルの民にも、エジプトの民にも、はたまた聖書を読むすべての人にも、分からせるための印 という要素が強かった。
また、聖書にはヨブという人物が登場する。ヨブは地球上で一番正しい人、と神様も認めるような人だった。ある時、天で神様とサタンの間にこのような会話があった。
サタン:「ヨブが正しいのは祝福されているからです。裕福でなくなったり、健康でなくなったら神をのろうでしょう。彼の正しさを試してもいいですか。」
神様:「よろしい。」
そして、その通り、ヨブは財産を失い、息子、娘を全て失い、体中に悪性の腫物ができて、極度の苦しみの中におかれてしまった。
そこへ、ヨブの友人がやってきて、初めは慰めようとするが、そのうちに、「何か悪いことしたんじゃないの。何か罰を受けているんじゃないの。」という理論に発展してしまう。
ヨブの友人でなくても、人間は悪いことを、何かの罰、呪われている、自分のせい、あるいは先祖のせい、などと考えがち。でも、このように不幸を「裁き」とする視点しか持っていないと、余計な苦しみを味わったり味わわせたりすることになる。ヨブも、既に味わっている苦しみに加え、「悪いから裁かれているんだろう」という酷い言葉に、二重の苦しみを負う羽目になった。
でも、ヨブ記から明らかなように、ヨブは正しい人だった。ヨブの苦しみは自業自得ではなく、むしろ、正しい人だからこそ、選ばれてそのような目にあったと言える。ヨブならばこの試練にも耐えられる、ということを神様がご存知で、人一倍正しいが故に、人一倍大きな試練に会った、と聖書は語っているのだ。苦しい目に会っている人は、後ろ指さされるどころか、むしろ尊敬に値する人なのかも知れない。
新約聖書のヨハネの福音書9章1から3節にある、盲目に生れついた人に対するイエス様のことばも他に類を見ない:
「(この人が盲目に生れついたのは、)この人が罪を犯したからでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。」
これも「印」の視点であって「裁き」ではない。
このような視点は聖書にしかない。
他のどの宗教も、「○○が悪かったせいだ」と裁きの要素をまず認めてしまって、だから「この壺を買いなさい」だとか、「祈りますから祈祷料を納めなさい」だとか、「どこそこに参拝せよ」だとか、「埋めてしまった××を掘り起こしなさい」だとか「先祖を供養しなさい」だとか、何らかの解決を与えようとする。
でも、キリスト教は違う。聖書を読むと、それとは全く違う視点が与えられる。
聖であって、正しく、愛であられる神様が、一人一人を知った上で、一人一人を選んで人生の中で御業を行われる。この視点があると、苦しみの中にも意味が見い出せ、主なる神様との交わりがあり、感謝さえ生まれる。「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。(詩篇119篇71節)」の聖句を、事故で首から下の自由を全て失った星野富弘という詩人が自分のことばとしているのも、そのためだろう。
三浦綾子という小説家も、病気のデパートと言われるほど様々な病気に苦しめられた女性だが、その苦しみの中から、人をイエス様に出会わせるような素晴らしい小説をいくつも生み出した。彼女自身、「私は選ばれているのね。神様から期待されているのね。」と言っていたらしい。
つい「裁き」の視点だけに傾きがちな私たち。日々聖書から教えられ、このような「裁き」と「印」の両方の視点を常に持ち、すべてのことに感謝する、良いサイクルの中に生きたいものである。
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牧師先生の話はとても分かりやすかったです。人身売買されてしまうような国や、食べ物や安全な水のない国にいる人たち、震災にあった人などに比べたら、私たちの苦しみはたかが知れている、と言ったらそれまでかも知れませんが、でも、皆それぞれ、人生に苦しいことがあります。特に、子供の障害や流産などの経験と向きあっておられるお母さん達もいる会ですから、聖書の視点にはぐっときて、涙が出そうになりました。牧師先生、ありがとう。私の大好きなお母さん仲間たち、毎日頑張りましょうね。
私の大好きな会。
昨日は幼稚園の理事をされている牧師先生を招き、話を聞きました。先生は昨日投稿した「出エジプト」から話を始めて、「裁きと印」という聖書の視点について教えてくださいました。とても良かったので自分のことばで紹介したいと思います。(自分なりにまとめました。あくまで文責モメ子です・・・)
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エジプトの奴隷となっていたイスラエルの民を、エジプトから脱出させる際、神様はエジプトに10の災いをくだされた。(ナイル川の水が血になったり、蛙などが大量発生したり、雹が降ったり、ついには子供が死んだり。)人間は悪いことが起こると、「悪いことをしたから裁かれているのだ」という発想をしやすい。でも聖書の出エジプト記をよく読むと、これら10の災いは、裁き(神罰)というよりも、印(しるし、サイン)として扱われている。つまり、神がおられること、神がパワフルであられること(やろうと思えばエジプトの王など一瞬で殺すこともできた全能の方)、神が正しい方であられること、神が従うべき方であられること、などをイスラエルの民にも、エジプトの民にも、はたまた聖書を読むすべての人にも、分からせるための印 という要素が強かった。
また、聖書にはヨブという人物が登場する。ヨブは地球上で一番正しい人、と神様も認めるような人だった。ある時、天で神様とサタンの間にこのような会話があった。
サタン:「ヨブが正しいのは祝福されているからです。裕福でなくなったり、健康でなくなったら神をのろうでしょう。彼の正しさを試してもいいですか。」
神様:「よろしい。」
そして、その通り、ヨブは財産を失い、息子、娘を全て失い、体中に悪性の腫物ができて、極度の苦しみの中におかれてしまった。
そこへ、ヨブの友人がやってきて、初めは慰めようとするが、そのうちに、「何か悪いことしたんじゃないの。何か罰を受けているんじゃないの。」という理論に発展してしまう。
ヨブの友人でなくても、人間は悪いことを、何かの罰、呪われている、自分のせい、あるいは先祖のせい、などと考えがち。でも、このように不幸を「裁き」とする視点しか持っていないと、余計な苦しみを味わったり味わわせたりすることになる。ヨブも、既に味わっている苦しみに加え、「悪いから裁かれているんだろう」という酷い言葉に、二重の苦しみを負う羽目になった。
でも、ヨブ記から明らかなように、ヨブは正しい人だった。ヨブの苦しみは自業自得ではなく、むしろ、正しい人だからこそ、選ばれてそのような目にあったと言える。ヨブならばこの試練にも耐えられる、ということを神様がご存知で、人一倍正しいが故に、人一倍大きな試練に会った、と聖書は語っているのだ。苦しい目に会っている人は、後ろ指さされるどころか、むしろ尊敬に値する人なのかも知れない。
新約聖書のヨハネの福音書9章1から3節にある、盲目に生れついた人に対するイエス様のことばも他に類を見ない:
「(この人が盲目に生れついたのは、)この人が罪を犯したからでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。」
これも「印」の視点であって「裁き」ではない。
このような視点は聖書にしかない。
他のどの宗教も、「○○が悪かったせいだ」と裁きの要素をまず認めてしまって、だから「この壺を買いなさい」だとか、「祈りますから祈祷料を納めなさい」だとか、「どこそこに参拝せよ」だとか、「埋めてしまった××を掘り起こしなさい」だとか「先祖を供養しなさい」だとか、何らかの解決を与えようとする。
でも、キリスト教は違う。聖書を読むと、それとは全く違う視点が与えられる。
聖であって、正しく、愛であられる神様が、一人一人を知った上で、一人一人を選んで人生の中で御業を行われる。この視点があると、苦しみの中にも意味が見い出せ、主なる神様との交わりがあり、感謝さえ生まれる。「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。(詩篇119篇71節)」の聖句を、事故で首から下の自由を全て失った星野富弘という詩人が自分のことばとしているのも、そのためだろう。
三浦綾子という小説家も、病気のデパートと言われるほど様々な病気に苦しめられた女性だが、その苦しみの中から、人をイエス様に出会わせるような素晴らしい小説をいくつも生み出した。彼女自身、「私は選ばれているのね。神様から期待されているのね。」と言っていたらしい。
つい「裁き」の視点だけに傾きがちな私たち。日々聖書から教えられ、このような「裁き」と「印」の両方の視点を常に持ち、すべてのことに感謝する、良いサイクルの中に生きたいものである。
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牧師先生の話はとても分かりやすかったです。人身売買されてしまうような国や、食べ物や安全な水のない国にいる人たち、震災にあった人などに比べたら、私たちの苦しみはたかが知れている、と言ったらそれまでかも知れませんが、でも、皆それぞれ、人生に苦しいことがあります。特に、子供の障害や流産などの経験と向きあっておられるお母さん達もいる会ですから、聖書の視点にはぐっときて、涙が出そうになりました。牧師先生、ありがとう。私の大好きなお母さん仲間たち、毎日頑張りましょうね。
2012年3月8日木曜日
出エジプト記15章抜粋
イスラエルの民が奴隷となっていたエジプトから奇跡的に脱出した「出エジプト」を経験した直後、リーダーのモーセとイスラエル人が神様(主)に向かって歌った歌の一部を載せます。なぜ今日この投稿をしたかの理由は後日乞うご期待・・・
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主は、私の力であり、ほめ歌である。
主は、私の救いとなられた。
この方こそ、わが神。
私はこの方をほめたたえる。
主はいくさびと。
その御名は主。
主はパロの戦車も軍勢も海の中に投げ込まれた。
主よ。神々のうち、
だれかあなたのような方があるでしょうか。
だれがあなたのように、聖であって力強く、
たたえられつつ恐れられ、
奇しいわざを行うことができましょうか。
あなたが贖われたこの民を、
あなたは恵みをもって導き、
御力をもって、聖なる御住まいに伴われた。
主はとこしえまでも統べ治められる。
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主は、私の力であり、ほめ歌である。
主は、私の救いとなられた。
この方こそ、わが神。
私はこの方をほめたたえる。
主はいくさびと。
その御名は主。
主はパロの戦車も軍勢も海の中に投げ込まれた。
主よ。神々のうち、
だれかあなたのような方があるでしょうか。
だれがあなたのように、聖であって力強く、
たたえられつつ恐れられ、
奇しいわざを行うことができましょうか。
あなたが贖われたこの民を、
あなたは恵みをもって導き、
御力をもって、聖なる御住まいに伴われた。
主はとこしえまでも統べ治められる。
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