2015年3月13日金曜日

どうする、サンタクロース?主人編

しつこいですが、前回と前々回に引き続き、もう一回だけサンタについて投稿します。

前回のは私の視点中心でしたが、今回は主人の視点中心で行きたいと思います。主人はスコットランド人で、サンタクロースのことを「Father Christmas」と呼んで信じていました。イブの夜には居間の暖炉のそばにストッキングを置き、サンタ用にウィスキー、トナカイ用にニンジンの差し入れも用意して寝ました。クリスマスの朝には真っ先に居間に行き、ストッキングにプレゼントが入っていることを確認する、そんなハッピーな幼少時代を送った人です。(不思議なことにウィスキーもニンジンも毎回完食されていました!)

主人も主人で、サンタに関して親に色々質問したそうです。主人の両親は、一貫して「サンタについては自分達もよく分からないけれど、サンタには沢山『リトル・ヘルパー』がいるんだよ。」と答えていたそうです。(でも、私の息子だったら「じゃぁ、その『リトル・ヘルパー』っていうのは何者?!」と質問攻めにして、私を降参させたことだと思います・・・サンタをやるというのは、相当の覚悟が必要です!)

主人は子供の頃、「サンタは神様みたいだな」と思っていました。本当にそうですよね。一晩のうちに世界中の子供達に、しかも、密室で寝ている子供達に、その子供達が一番欲しいと思っているものを確実に届けるなんて、まさに「神業」。リトル・ヘルパーが何人いようが、神様みたいです。そんな主人にとって、サンタの一番の問題は「神様みたいな」存在なのに、「神様と全く反対のことを言う」ことです。

サンタのセリフと言えばこれでしょう:「良い子にはプレゼントをあげるよ。」

神様が聖書を通して私たち人間に教えたいのはその反対です:「良い子はいない。でも私の恵みのゆえにプレゼントをあげよう。わたしのもとに帰っておいで。愛しているから。」

私たちは毎日子供と聖書を読んで、このメッセージを教えています。でも、「福音」、「幸福な音」、すなわちグッド・ニュースなはずのこのメッセージは、実は単純なようで私たち人間にはなかなか受け入れにくいメッセージなのですよね。

人間はいくら罪人だと諭されても、やはり自分には良いところが沢山あるように思え、その良い所で努力して神様に近づこうとしてしまうのです。神様の好意を自分の力で勝ち取ろうと思ってしまうのです。もう信じられないくらい神様からは愛されており、好意を得ており、それなのに多くの場合に神様のことを忘れて自分中心に生きているにもかかわらず。

これに関しては、2014年3月10日の投稿、「順番」をご参照ください:
http://momekomemo.blogspot.co.uk/2014/03/blog-post_10.html

小さな子どもにとっては「神様」みたいに不思議な存在のサンタ。神様とサンタを明確に区別するのは難しいでしょう。そして一方では恵みによる救いを教え、他方では良い子にしていないとプレゼントはもらえないという、互いに相反することを教えたら、混乱するでしょう。

ということで、主人の中でも「我が家ではサンタをしない」方針に固まっていきました。

「サンタクロースくらい、楽しければいいじゃん」と思われる方もいるでしょう。でも、私と主人にとって、クリスチャンとして生きていくのはもっと真剣なことです。毎日毎日真剣勝負です。そしてそれはサンタクロースを楽しむのと比べものにならないくらい、幸いで素晴らしい真剣勝負です。神様は本当にいて、私たちを愛してくださっているからです。

「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」(ローマ人への手紙5章8節)

この愛を知った私たちには、サンタは実は「ちりあくた」です。

「私(パウロ)にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。キリストの中にある者と認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです。」(ピリピ人への手紙3章7節~9節)










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