2014年3月28日金曜日

あんなにも

火曜日に映画「パッション」を観ました。観終わった感想は、水野源三の「あんなにも」という詩がぴったりでしたので、ご紹介します:

「あんなにも」

1.主イエスがあんなにも
  主イエスがあんなにも
  私達の罪のために
  涙を流して悲しんでおられるのに
  罪を悲しまなくてもよいだろうか
  罪を悲しまなくてもよいだろうか

2.主イエスがあんなにも
  主イエスがあんなにも
  私達を愛するために
  血潮を流して苦しんでおられるのに
  悔いあらためなくてもよいだろうか
  悔いあらためなくてもよいだろうか

3.主イエスがあんなにも
  主イエスがあんなにも
  私達を救うために
  きのうもきょうも招いておられるのに
  御許へ行かなくてもよいだろうか
  御許へ行かなくてもよいだろうか

水野源三はパッションを観なかったのにここまで罪の深刻さ、イエス・キリストの受難の激しさ、愛の深さに思いを馳せることができたのに脱帽です。研ぎ澄まされた感性を持って聖書と向き合っておられたのだなぁ、と思います。

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週末、久しぶりに義妹の家で過ごしました。近くに住んでいても、お互い忙しくて実はあまり遊べません。

自由に放し飼いになっている家畜を「free range」と言いますが、義妹の家のそばにこんな標識を発見!地鶏ならぬ地子供に要注意!

雛菊を摘むアイラとローズ。

春とは言えまだ寒いイギリスで、すぐTシャツ一枚になってしまう風の子の和馬。

  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
 

2014年3月21日金曜日

イースター仕様

4月20日が今年のイースターです。これから1ケ月間、我が家はイースター仕様になります。キリストの誕生(クリスマス)と同じくらいキリストの復活を覚え、喜び、祝いたい!伝えたい!ということで、飾り付け第一段階が終わりました。

春の到来を告げてくれる花、多産のうさぎ、新しい命である卵は、すべて死に打ち勝って生ける望みをくださるキリストを指し示すモノたちです。

イースターのカードをもらったり、子供たちがイースター関連の工作をしてきたら、空いているスペースに随時飾っていきます。
イースター企画第一弾としては、来週我が家でメル・ギブソン監督の映画、「パッション」の上映会をします。来客の多い1ケ月になりそうです。

2014年3月20日木曜日

お疲れモード

先週の土曜日、無事に第2回日英バイリンガル特別伝道集会を終え、ホッと一息ついているところです。50名の参加を祈っていましたが、子供を入れてぴったり50名でした。「だったら100名祈っていたら良かったのにね。」と色々な人に言われました・・・。確かに。

土曜日はアドレナリンが出ていてあまり感じなかったけれど、日曜日起きたら口内炎ができており、やっぱりイベントは体力を使うということを、非常に正直な体が教えてくれました。

とは言え、もう水曜日。お疲れモードも終了し、春になってきたオックスフォードでイースターに向けて再始動しています。

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上の真ん中の歯も抜け、こんな笑顔です。

テントウムシのワンピースが春らしさを増した今朝のアイラ。(台所のワークトップの上に座って家事を観察するのが好き。私が夕食を作っている時も大体座って見ていますが、時々舟をこぎ出す(居眠りしだす)ので慌ててソファーに移動させたりします。)

犬のように友達と駆け回っている放課後の和馬。

「パパ、良い秘密がいい?悪い秘密がいい?」と聞いて内緒話をするアイラ。「良い秘密」と答えると、「大好き」とか良いことを言ってくれ、「悪い秘密」と答えると、「ブーッ」っと耳に息を吹きかけられます。最近、本当にヒソヒソ声で話せるようになりました。前は、反対側に座っている私にも「聞こえますけど・・・」というようなボリュームでしか囁けなかったことを考えると、これも成長です。


パパからもお返し。こういう小さな触れ合いが家族の幸せでしょうか。

2014年3月10日月曜日

順番

今日はまた少し信仰のことについて・・・

私たちが考えがちな神様との関係は、大体こんな順番です:

1.「何か良いことをして神様に気に入られれば、御利益が期待できる、もしくは祟りを免れる」というロジックから、寺社を参詣してみたり、お賽銭を投げ入れてみたり、巡礼・修行の類をしてみたり、経典を読んでみたり、祈ってみたりする。つまり神様の好みそうな「良い子」になってみる、あるいは「良い行い」をしてみる。

2.キリスト教では1をして聖書を読んだり説教を聞きかじってみると、神様を愛することが大事なんだと分かってくるので、神様を愛そうと努力する。少なくとも、神様が、「あぁ、この人は私を大事にしているな」と思ってくれるようにと、敬虔なことをして(礼拝に参加するなど)神様を愛そうとする。

3.1番と2番を頑張ってしたのだから、神様の方も心がほだされて、私のために恵みをくださるだろうと期待する。

この順番で神の恵み、御利益が与えられるとどうなるでしょう。1番と2番をしたんだから、結局のところ「私ってすごい」、「恵まれて当然」、「神様ありがとう、また必要になったら頑張りますのでよろしくね」という結論になると思います。
また、与えられないとどうなるでしょう。「何だ、結局無駄じゃん」、「もういいよ、やっぱり神様なんていないよね」、もしくは、「私の努力が足りなかったんだ、次はもっと頑張ろう」となるのではないでしょうか。

ところが、聖書の教える神様と人間の関係は、実はこの全く逆なんですよ。聖書の順番はこうです:

1.神様は、ご自身のその測り知れない大きな愛の故に、罪の中におり、背中を向け続けている人間に対し、大きな恵みを一方的に与えてくださる。その顕著な例がイエス・キリストの十字架。神を神とせず、自分で善し悪しを決めて自分中心に生きている人の罪を、神ご自身が代わりに背負って、十字架刑を忍ばれた。人類は皆有罪、死刑判決が出ていたところを、イエス・キリストが代わりにその死刑を受けてくれたので、それを信じる人は無罪放免となる。神様はそのように無罪となった人をご自分の子供としてくださり、その人がご自分との親子の愛の関係の中で生き、豊かに命を保てるようにと、常に配慮してくださっている。

2.1番の神の愛を知った人、受けた人は、「そうなんだ、神様は私のことをこんなにまでも愛してくださっていたんだ、知らなかった。ごめんなさい、ありがとう、神様。」と、神様の方を向くようになる。神様に先に愛してもらったので、そして、その愛が分かったので、自分も神様を愛するようになる。

3.愛されている子供として、父なる神様の望まれるように生きたいと願うようになる。神様の子供にふさわしい歩み方は何だろう、神様は何を喜ばれるのだろう、神様のみこころは何だろう、という動機から、聖書を読むようになり、祈るようになり、礼拝に参加するようになり、etc. etc. と、神様の愛にそれぞれが応答して、従うようになる。

この順番で「すごい」のは、「私」ではなく、始めから最後まで神様です。「神様ってすごい。」の一言に尽きるのです。
恵みに対する反応は、「私は値しない者であったのにただで受けた。神様ありがとう。ただで受けたのだから、ただで与える者に私もなりたいです。そうならせてください。」でしょう。
このような神への従順から来る「良い行い」は、神様に栄光を帰すものとなります。行為者を誇らせるものとはならないのです。

こう考えてみると、クリスチャンは「良い子」ではありません。「良い子になりたい」と望んでいるでしょうけれど、つまるところ、「罪を赦された、愛されている子」なんですね。「良い子」にならないとクリスチャンになれないと思っていた方、どうぞご安心を!

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今日は礼拝の後に半袖になってしまうような気候でした。

和馬が見せたいのはテントウムシ。でも私が見せたいのは彼の歯抜け状況。今まで全部で5本抜けました。上の真ん中も相当ぐらぐらです。

2014年3月4日火曜日

メッセージ

まだ字の読み書きはできないアイラ。(数字は1から10まで認識している模様。でも時々トゥウェンティーンとかイレブンティーンとか存在しない数字を言ってますが・・・)
私が家事の合間に携帯からメールしているのを見て自分もやりたくなり、メッセージ、メッセージ、とせがんできたので、仕方なく1通、絵文字のメールを送らせたのが間違いでした。暇になると「メッセージを送りたい」衝動にかられるらしく、気をそらすのに一苦労。
色々な人に送りたがりますが、迷惑になるだけだと思い、夫と両親、あとは大の子供好きの教会のお兄さんだけに被害者を絞っています。アイラが大好きなこのお兄さんは、律儀に毎回絵文字で返事を返してくれ、忙しいのに悪いなと思いつつ、時々メールを許可してしまう私です。まぁ、そのうち飽きるでしょう・・・と思ってますが、甘いでしょうか。

 
 真剣に絵文字選び。
 こんなメールを送ってます。

本人は大満足。