2014年6月26日木曜日

スポーツの初夏

日本ならスポーツの秋ですが、今こちらは初夏、毎日スポーツ、スポーツ、スポーツです。というのも、残念ながら日本もイングランドも戦績が芳しくありませんでしたが、ワールドカップの真っ最中ですよね。それに加え、テニスのウィンブルドンが始まり、学校のスポーツ行事まであって、スポーツ好きの和馬にはたまらない季節となっています。

今月頭、学校で「ワールドカップの日」がありました。低学年全体を10カ国に分け、サッカーの試合を一日中するという、和馬には夢のような日でした。同じく大のサッカー好きのクラスメートと撮った写真です。
 更に、今週月曜日にあった運動会。最終種目のリレー。バトンの代わりにぬいぐるみを持って走ります。誰かの手が邪魔ですが、クラス対抗で、和馬のクラスが優勝でした。
こちらは、踊る以外はスポーツにあまり興味のないアイラ。口は達者で、3歳児なのに義理の母と普通に電話でベラベラ喋ります。が、相変わらず時々子音がひっくり返り、今朝もウィンブルドンのことを、ウィルブンドンと言っておりました。
ちなみに私は、スコットランド出身のテニスのアンディ・マレー選手を応援しています。

2014年6月17日火曜日

I See The Light

イギリスの学者であり小説家、キリスト教の伝道者でもあったC. S. ルイスと言えばナルニア国物語が有名ですが、彼は今でもその著作が「説教中最も引用される人」だそうです。先週のセント・エブス教会の説教でも、ルイスの本、「痛みの問題」(The Problem of Pain, 1940)と「悲しみを見つめて」(A Grief Observed, 1960)から、彼の言葉が引用されました。

私もルイスの言葉が好きです。本当に賢い人が良く考えてフレーズした言葉というんでしょうか、味わい深く、まさに言い得て妙、という言葉ばかり。

中でも好きなのがこれ:
"I believe in Christianity as I believe that the sun has risen, not just because I see it, but because by it I see everything else." - C.S. Lewis

これは英語のように格好良くは日本語に訳せませんが、意味を説明するように訳すとこんな感じです:
「私は日が昇ったのを信じるようにキリスト教を信じている。日が昇ったことは、自分の目でそれ(空にある太陽)を見ることができるということだけではなくて、昇った日の光によって、周りの物が見えるようになったということの両方から、信じることができる。それと同じように、私はキリスト教の教えそのものを自分の目で見ることと、また、キリスト教を信じることによってその他もろもろのことが見えるようになったということの両方から、キリスト教を信じている。」

いやはや、本当にそうだと思います。私も聖書に出会って、イエス・キリストを通して神を知って、本当にその他の色々なことが見えるようになりました。意味が通じるようになったというか。神がどんな方なのか、自分がどのような存在なのか、世の中どうしてこうなのか、歴史がどうやって動いてきたのか、自分はどこから来てどこへ行くのか、人生に意味はあるのか、などなど、それまでは見えていなかった、あるいは間違った視点で見ていたものが、見えるようになりました。霧が晴れたように。あるいは、視野が正しくシフトしたように。

と、ここまでは前置きでした。
今日の本題は、以上を踏まえ、読んでいただきたいと思います。

今私とアイラの中でヒットしている曲に、映画「塔の上のラプンツェル」の中に出てくる「輝く未来」があります。といっても、英語でヒットしているので「Tangled」の「I see the light」と言わないといけませんが。

この歌を英語で聴くと、なんだかキリスト教を信じた時の感動を歌っているように聴こえます。
イエス様はご自分のことを「わたしは世の光です。」(ヨハネの福音書8章12節)と言われました。だから、まるで「光であられるイエス・キリストが見えて、すべてが変わった」という「回心の歌」のようなのです。以下のサイトから聴いてみてください。下に、原語の歌詞と私訳を載せます。毎日大声で歌いつつ歌詞にうっとりしている母子の姿が見えてくることでしょう!ちなみに、「知恵」とか「知識」は代名詞にすると「she / her」になります。だからフリン(ユージーン)の部分も聖書的な解釈にこじつけようと思えばこじつけられます。。

http://www.youtube.com/watch?v=y9m38Kl-Rp4

I See The Light

All those days watching from the windows
All those years outside looking in
All that time never even knowing
Just how blind I've been
Now I'm here, blinking in the starlight
Now I'm here, suddenly I see
Standing here, it's all so clear
I'm where I'm meant to be

窓から外を眺めていたあの長い日々
自分は蚊帳の外で、遠巻きに世界を見ていたあの長い年月
その間ずっと、自分がいかに何も見えていなかったかすら、見えていなかった
でも今、こうして星空の下にいる
急に見えるようになった
ここに立っていると、自分が今、いるべき場所にいると確信できる

And at last I see the light
And it's like the fog has lifted
And at last I see the light
And it's like the sky is new
And it's warm and real and bright
And the world has somehow shifted
All at once everything looks different
Now that I see you

やっと、光が見えた
それは霧が晴れたよう
やっと、光が見えた
それは空が新しくなったよう
ほんわか心が温かく、でもリアルでまぶしい
何だか世界がシフトしたみたい
突然、全てが違って見える
あなたを知ったから

All those days chasing down a daydream
All those years living in a blur
All that time never truly seeing
Things, the way they were
Now she's here shining in the starlight
Now she's here, suddenly I now
If she's here it's crystal clear
I'm where I'm meant to go

夢を追いかけていたあの長い日々
ぼやけた世界に生きていた長い年月
その間ずっと、ものごとの真の姿が見えていなかった
でも今、彼女が星空の下に輝いている
でも今、彼女がここにいて、急に分かった
彼女がいるなら、自分が行くべき場所に向かっているのだと確信できる

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 この間、バレーの前に撮った写真。この笑顔、義理の母にそっくりです。
踊るのと歌うのが大好きなアイラ。これからもラプンツェル、一緒に歌おうね!

2014年6月10日火曜日

神様の喜びを共にする

一昨日の日曜日に、セント・エブス教会の洗礼式がありました。ご存知の方もおられると思いますが、セント・エブス教会は大きく、毎週4回礼拝があります。希望者があれば随時各礼拝で洗礼式が持たれますが、一昨日は教会を挙げての、一年に一度の合同洗礼式で、テムズ川で行われました。
川辺に何人集まったでしょうか。「群衆」と呼ぶのがふさわしい感じでした。道行く人も何事かと思ったでしょう。川をヨットや小舟で通り過ぎる人が興味深そうに私たちの賛美を聞いているのが印象的でした。

昨年の受洗者の中には、主人と私とずっと聖書を読んでいた友人がいたので当然めちゃくちゃ感動するという認識で臨みましたが、今年は受洗者の中に個人的に知っている人はいませんでした。だから、「素晴らしく喜ばしい日であり、とても楽しみにして出席するけれども、去年ほどは感動しないだろう」と思っていました。

ところが、ところが!!12名の受洗者と、4名の堅信者(幼い時に洗礼を受けているので、再び「洗礼を受ける」ことはしないのですが、この度はっきりとした信仰に導かれたので、自分のことばで信仰を公に告白したいと望んだ人)の証(どのように神様が導き働いてくださったかを証言すること)が始まった途端、何とも言えない深い感動に包まれて、涙をこらえるのに必死なくらい、感激してしまいました。その後ずっと、洗礼式が終わるまで、感動の嵐は続きました。

それで、思ったのです。これは、私自身ももちろん喜んで感動しているけれども、それよりももっと大きな、私の内に住んでくださっている聖霊の喜びと感動に、私が圧倒されてしまっているという経験ではなかろうかと。キリストの御名を信じた者には神様の霊(聖霊と言ったり、御霊と言ったりします)が与えられ、その人の内に住んでくださるというのが聖書の約束です。でも聖霊が入ってくださった瞬間に「ビビビ」っと何かを感じるわけでもなく、それをことばで説明するのは難しいです。信じて起こる色々な変化をもって、「これは御霊のなせるわざなのだ」と納得するのが多くの人の経験でしょう。でも一昨日は、私の中にいる御霊を体験的に知ることができるとしたら、こういうことを通してなのかもしれないな、と思わされるような経験でした。

そしてまた、私たち人間がご自身のもとに立ち返ることをこれほどまでに喜び、感動して迎え入れてくださる神様に、改めて感激し、深く感謝しました。このような神様がおられるってなんて幸せなことでしょう。

ルカの福音書の15章に、一人の罪人が悔い改める時に起こる天での喜びがいかに大きいかが記されています。一昨日の洗礼式は、まさにそのあらわれだったと思います。クリスチャンはこうして神様と喜びを共にしていくことができるのですね。何だか、クリスチャン人生の醍醐味をまたひとつ学ぶことの出来た、忘れられない一昨日の洗礼式でした。

2014年6月4日水曜日

くびき

今日は私の好きな聖書のことばをひとつご紹介します:

マタイの福音書11章28~30節
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたし(イエス)のところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」

5月に2回しか投稿できず、6月に入ってしまったので「また忙しくしてるんだな」と思われた方もいらっしゃるかもしれません。確かに忙しくしていました。そして疲れていました。疲れるとこの聖書の箇所を思い出します。

クリスチャンになってすぐのころは、「本当に、イエス様の十字架によって全てがゆるされているから、罪責感や罪悪感から解放され、こころに安らぎがきたな、重荷を降ろせたな、神さまありがとう。」という感じで読んでいました。心の疲労の話をしていると思っていました。確かに、イエス様のところに行くと、愛、癒し、神との和解が与えられ、たましいに安らぎが来ます。

でもここ数年、クリスチャンとして生きているがゆえに疲れていることもある、と思うとき、この箇所を思い出しては、「イエス様、あなたのところに来たら休ませてくれるというお約束ですけれど、私はクリスチャンとしての働きのために肉体的には非常に疲れてますけど・・・」と心の中で言っていました。

でも少し前に「Bible navi」を使ってこの箇所を読んでいた時に「労働」について考えさせられました。くびきというのは農耕などで「熱心に働くための牛の道具」。

イエス様のもとに来れば、意味のない重労働、破壊的なくびきからは解放されるが、「労働」から解放されるわけではない。霊的に生産的で充実した労働、しかもイエス様が共に担い(イエス様の方が大きいので、私の肩よりもイエス様の方に大きな重みはかかっている)、引っ張っていってくれる労働をしているのだ、と教えられました。

「農具を引っ張る力を持つ方が、あなたの先に立って助けてくださる。あなたは偉大なる同伴者と人生の責任を一緒に負っているのだ。しかめ面は笑顔になり、不平は歌になるのである。」(Bible navi、1537ページ)

本当にそうです。
クリスチャンとして働けることに感謝。こんな私と共にくびきを負ってくださり、導いて下さる主に感謝です。

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この間撮ってもらった家族写真。和馬は「サッカー選手の表情」です。普通に笑っておくれ、というのが母の願い。。。