引っ越しを挟んでご無沙汰しています。
日本は春らしくなってきましたか。
イギリスは今日、記録を塗り替える暖かさで、3月末とはとても思えぬ日差しを楽しみました。
教会に向かってイギリスの街を闊歩する家族の写真を見ていただいても、コートやジャケットを着ていないのが分かるでしょう。暗くて寒いと気分も沈むので、この陽気は神様からのプレゼントだと思って喜んでいます。
木曜の夜にイギリスに着きましたが、さすがに乳幼児二人連れての長距離移動は大変でした。。。イギリスの空港に着いたら寒いだろうと思い、手荷物に防寒着などもいれたため、持ち歩くものが多く、かさばる荷物を抱えて混んでいる空港や狭い機内をかき分けて歩くだけで汗をかく始末。
自分ひとりで大丈夫かな、という気苦労(?)も疲れを嫌増すのでしょうね。着いた翌日の金曜日は、まだ気が張っていたのか、そこまで疲れていると思わなかったけれど、昨日の土曜日は動くのが億劫になるほど、疲れがどっと出ました。
オックスフォードの教会の計らいもあって、今一旦スコットランドの夫の実家にいますが、実家にいなかったら倒れていたかも、と本気で思います。
時差ボケで超早起きだった子供達も、今朝は5時台まで寝たし、私も昨日の午後に寝かせてもらったので、今日は大分回復しました。オックスフォードで本格的に働きを開始するまでに、イギリスの生活に体をならすことができて、本当にありがたいです。
「イギリス楽しい!」と言っている和馬と、引っ越したことも分かっていないだろうアイラの笑顔を見て、「今回の国際引っ越しは大丈夫かも・・・」と思った今日でした。
実家の庭で遊ぶ二人の写真も添付します。
2012年3月26日月曜日
2012年3月24日土曜日
渡英
2012年3月15日木曜日
卒業
2012年3月10日土曜日
のどかな日々
2012年3月9日金曜日
聖書の視点
昨日、息子の幼稚園で月2回ほど行われている、お母さんのための聖書の会がありました。
私の大好きな会。
昨日は幼稚園の理事をされている牧師先生を招き、話を聞きました。先生は昨日投稿した「出エジプト」から話を始めて、「裁きと印」という聖書の視点について教えてくださいました。とても良かったので自分のことばで紹介したいと思います。(自分なりにまとめました。あくまで文責モメ子です・・・)
************************************************
エジプトの奴隷となっていたイスラエルの民を、エジプトから脱出させる際、神様はエジプトに10の災いをくだされた。(ナイル川の水が血になったり、蛙などが大量発生したり、雹が降ったり、ついには子供が死んだり。)人間は悪いことが起こると、「悪いことをしたから裁かれているのだ」という発想をしやすい。でも聖書の出エジプト記をよく読むと、これら10の災いは、裁き(神罰)というよりも、印(しるし、サイン)として扱われている。つまり、神がおられること、神がパワフルであられること(やろうと思えばエジプトの王など一瞬で殺すこともできた全能の方)、神が正しい方であられること、神が従うべき方であられること、などをイスラエルの民にも、エジプトの民にも、はたまた聖書を読むすべての人にも、分からせるための印 という要素が強かった。
また、聖書にはヨブという人物が登場する。ヨブは地球上で一番正しい人、と神様も認めるような人だった。ある時、天で神様とサタンの間にこのような会話があった。
サタン:「ヨブが正しいのは祝福されているからです。裕福でなくなったり、健康でなくなったら神をのろうでしょう。彼の正しさを試してもいいですか。」
神様:「よろしい。」
そして、その通り、ヨブは財産を失い、息子、娘を全て失い、体中に悪性の腫物ができて、極度の苦しみの中におかれてしまった。
そこへ、ヨブの友人がやってきて、初めは慰めようとするが、そのうちに、「何か悪いことしたんじゃないの。何か罰を受けているんじゃないの。」という理論に発展してしまう。
ヨブの友人でなくても、人間は悪いことを、何かの罰、呪われている、自分のせい、あるいは先祖のせい、などと考えがち。でも、このように不幸を「裁き」とする視点しか持っていないと、余計な苦しみを味わったり味わわせたりすることになる。ヨブも、既に味わっている苦しみに加え、「悪いから裁かれているんだろう」という酷い言葉に、二重の苦しみを負う羽目になった。
でも、ヨブ記から明らかなように、ヨブは正しい人だった。ヨブの苦しみは自業自得ではなく、むしろ、正しい人だからこそ、選ばれてそのような目にあったと言える。ヨブならばこの試練にも耐えられる、ということを神様がご存知で、人一倍正しいが故に、人一倍大きな試練に会った、と聖書は語っているのだ。苦しい目に会っている人は、後ろ指さされるどころか、むしろ尊敬に値する人なのかも知れない。
新約聖書のヨハネの福音書9章1から3節にある、盲目に生れついた人に対するイエス様のことばも他に類を見ない:
「(この人が盲目に生れついたのは、)この人が罪を犯したからでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。」
これも「印」の視点であって「裁き」ではない。
このような視点は聖書にしかない。
他のどの宗教も、「○○が悪かったせいだ」と裁きの要素をまず認めてしまって、だから「この壺を買いなさい」だとか、「祈りますから祈祷料を納めなさい」だとか、「どこそこに参拝せよ」だとか、「埋めてしまった××を掘り起こしなさい」だとか「先祖を供養しなさい」だとか、何らかの解決を与えようとする。
でも、キリスト教は違う。聖書を読むと、それとは全く違う視点が与えられる。
聖であって、正しく、愛であられる神様が、一人一人を知った上で、一人一人を選んで人生の中で御業を行われる。この視点があると、苦しみの中にも意味が見い出せ、主なる神様との交わりがあり、感謝さえ生まれる。「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。(詩篇119篇71節)」の聖句を、事故で首から下の自由を全て失った星野富弘という詩人が自分のことばとしているのも、そのためだろう。
三浦綾子という小説家も、病気のデパートと言われるほど様々な病気に苦しめられた女性だが、その苦しみの中から、人をイエス様に出会わせるような素晴らしい小説をいくつも生み出した。彼女自身、「私は選ばれているのね。神様から期待されているのね。」と言っていたらしい。
つい「裁き」の視点だけに傾きがちな私たち。日々聖書から教えられ、このような「裁き」と「印」の両方の視点を常に持ち、すべてのことに感謝する、良いサイクルの中に生きたいものである。
*************************************************
牧師先生の話はとても分かりやすかったです。人身売買されてしまうような国や、食べ物や安全な水のない国にいる人たち、震災にあった人などに比べたら、私たちの苦しみはたかが知れている、と言ったらそれまでかも知れませんが、でも、皆それぞれ、人生に苦しいことがあります。特に、子供の障害や流産などの経験と向きあっておられるお母さん達もいる会ですから、聖書の視点にはぐっときて、涙が出そうになりました。牧師先生、ありがとう。私の大好きなお母さん仲間たち、毎日頑張りましょうね。
私の大好きな会。
昨日は幼稚園の理事をされている牧師先生を招き、話を聞きました。先生は昨日投稿した「出エジプト」から話を始めて、「裁きと印」という聖書の視点について教えてくださいました。とても良かったので自分のことばで紹介したいと思います。(自分なりにまとめました。あくまで文責モメ子です・・・)
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エジプトの奴隷となっていたイスラエルの民を、エジプトから脱出させる際、神様はエジプトに10の災いをくだされた。(ナイル川の水が血になったり、蛙などが大量発生したり、雹が降ったり、ついには子供が死んだり。)人間は悪いことが起こると、「悪いことをしたから裁かれているのだ」という発想をしやすい。でも聖書の出エジプト記をよく読むと、これら10の災いは、裁き(神罰)というよりも、印(しるし、サイン)として扱われている。つまり、神がおられること、神がパワフルであられること(やろうと思えばエジプトの王など一瞬で殺すこともできた全能の方)、神が正しい方であられること、神が従うべき方であられること、などをイスラエルの民にも、エジプトの民にも、はたまた聖書を読むすべての人にも、分からせるための印 という要素が強かった。
また、聖書にはヨブという人物が登場する。ヨブは地球上で一番正しい人、と神様も認めるような人だった。ある時、天で神様とサタンの間にこのような会話があった。
サタン:「ヨブが正しいのは祝福されているからです。裕福でなくなったり、健康でなくなったら神をのろうでしょう。彼の正しさを試してもいいですか。」
神様:「よろしい。」
そして、その通り、ヨブは財産を失い、息子、娘を全て失い、体中に悪性の腫物ができて、極度の苦しみの中におかれてしまった。
そこへ、ヨブの友人がやってきて、初めは慰めようとするが、そのうちに、「何か悪いことしたんじゃないの。何か罰を受けているんじゃないの。」という理論に発展してしまう。
ヨブの友人でなくても、人間は悪いことを、何かの罰、呪われている、自分のせい、あるいは先祖のせい、などと考えがち。でも、このように不幸を「裁き」とする視点しか持っていないと、余計な苦しみを味わったり味わわせたりすることになる。ヨブも、既に味わっている苦しみに加え、「悪いから裁かれているんだろう」という酷い言葉に、二重の苦しみを負う羽目になった。
でも、ヨブ記から明らかなように、ヨブは正しい人だった。ヨブの苦しみは自業自得ではなく、むしろ、正しい人だからこそ、選ばれてそのような目にあったと言える。ヨブならばこの試練にも耐えられる、ということを神様がご存知で、人一倍正しいが故に、人一倍大きな試練に会った、と聖書は語っているのだ。苦しい目に会っている人は、後ろ指さされるどころか、むしろ尊敬に値する人なのかも知れない。
新約聖書のヨハネの福音書9章1から3節にある、盲目に生れついた人に対するイエス様のことばも他に類を見ない:
「(この人が盲目に生れついたのは、)この人が罪を犯したからでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。」
これも「印」の視点であって「裁き」ではない。
このような視点は聖書にしかない。
他のどの宗教も、「○○が悪かったせいだ」と裁きの要素をまず認めてしまって、だから「この壺を買いなさい」だとか、「祈りますから祈祷料を納めなさい」だとか、「どこそこに参拝せよ」だとか、「埋めてしまった××を掘り起こしなさい」だとか「先祖を供養しなさい」だとか、何らかの解決を与えようとする。
でも、キリスト教は違う。聖書を読むと、それとは全く違う視点が与えられる。
聖であって、正しく、愛であられる神様が、一人一人を知った上で、一人一人を選んで人生の中で御業を行われる。この視点があると、苦しみの中にも意味が見い出せ、主なる神様との交わりがあり、感謝さえ生まれる。「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。(詩篇119篇71節)」の聖句を、事故で首から下の自由を全て失った星野富弘という詩人が自分のことばとしているのも、そのためだろう。
三浦綾子という小説家も、病気のデパートと言われるほど様々な病気に苦しめられた女性だが、その苦しみの中から、人をイエス様に出会わせるような素晴らしい小説をいくつも生み出した。彼女自身、「私は選ばれているのね。神様から期待されているのね。」と言っていたらしい。
つい「裁き」の視点だけに傾きがちな私たち。日々聖書から教えられ、このような「裁き」と「印」の両方の視点を常に持ち、すべてのことに感謝する、良いサイクルの中に生きたいものである。
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牧師先生の話はとても分かりやすかったです。人身売買されてしまうような国や、食べ物や安全な水のない国にいる人たち、震災にあった人などに比べたら、私たちの苦しみはたかが知れている、と言ったらそれまでかも知れませんが、でも、皆それぞれ、人生に苦しいことがあります。特に、子供の障害や流産などの経験と向きあっておられるお母さん達もいる会ですから、聖書の視点にはぐっときて、涙が出そうになりました。牧師先生、ありがとう。私の大好きなお母さん仲間たち、毎日頑張りましょうね。
2012年3月8日木曜日
出エジプト記15章抜粋
イスラエルの民が奴隷となっていたエジプトから奇跡的に脱出した「出エジプト」を経験した直後、リーダーのモーセとイスラエル人が神様(主)に向かって歌った歌の一部を載せます。なぜ今日この投稿をしたかの理由は後日乞うご期待・・・
♪
主は、私の力であり、ほめ歌である。
主は、私の救いとなられた。
この方こそ、わが神。
私はこの方をほめたたえる。
主はいくさびと。
その御名は主。
主はパロの戦車も軍勢も海の中に投げ込まれた。
主よ。神々のうち、
だれかあなたのような方があるでしょうか。
だれがあなたのように、聖であって力強く、
たたえられつつ恐れられ、
奇しいわざを行うことができましょうか。
あなたが贖われたこの民を、
あなたは恵みをもって導き、
御力をもって、聖なる御住まいに伴われた。
主はとこしえまでも統べ治められる。
♪
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主は、私の力であり、ほめ歌である。
主は、私の救いとなられた。
この方こそ、わが神。
私はこの方をほめたたえる。
主はいくさびと。
その御名は主。
主はパロの戦車も軍勢も海の中に投げ込まれた。
主よ。神々のうち、
だれかあなたのような方があるでしょうか。
だれがあなたのように、聖であって力強く、
たたえられつつ恐れられ、
奇しいわざを行うことができましょうか。
あなたが贖われたこの民を、
あなたは恵みをもって導き、
御力をもって、聖なる御住まいに伴われた。
主はとこしえまでも統べ治められる。
♪
2012年3月6日火曜日
小春日和
今日はいきなり春の陽気。久しぶりにアイラと公園に行きました。最近家族の誰かがいつも体調不良で不必要な外出は控えていたので久々に気分も晴れました!公園への道、工事のおじさんが「今日は最高!!」と大きな声で言うから、「本当ですね。今日はいきなり春ですね。」と応えたら、「違うよ。この子に会えたから ♡」だって。そう言えば和馬も、ロンドンで散歩中によく(老)婦人に「You make my day ♡」とか「Oh, you have made my day ♡」とか言われていたっけ。保育園児が老人ホームを訪ねたりするのが双方にとって良いと聞いたけれど本当かも。小さい子の力は偉大なり。
それはともかく、その工事のおじさんは、何でもお孫さんが4人いらっしゃるがいずれも男の子で、ちょっとつまらないのだとか。でも、すっごく嬉しそうに先週3歳になったという一番小さいお孫さんの誕生日の写真を携帯で見せてくれました。子供がいると思いがけぬ人との温かい会話が増えていいな。
それはともかく、その工事のおじさんは、何でもお孫さんが4人いらっしゃるがいずれも男の子で、ちょっとつまらないのだとか。でも、すっごく嬉しそうに先週3歳になったという一番小さいお孫さんの誕生日の写真を携帯で見せてくれました。子供がいると思いがけぬ人との温かい会話が増えていいな。
2012年3月5日月曜日
満足な二人
2012年3月1日木曜日
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