2014年1月20日月曜日

死後のこと

昨年12月に、教会で死後のことをテーマにショート・メッセージをしました。10分の話なので実はそんなに「ショート」ではないので、お時間のある時にお読みください。(ブログ用に多少編集してあります。)
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「ママ、人は死んだらどうなるの?」
娘のアイラが 3歳になる直前にこんな質問をしました。
(Mummy, what happens when you die?)
ああ、この子もこういうことを聞くようになったんだな、成長したな、と思うと同時に、「死後のことについて知りたい」という思いが、古今東西、人間には普遍のテーマとしてやはりあるのだな、と再確認した思いでした。
実は私も、このことについては小さい頃によく考えたのです。夜寝る前にあれこれ考えて、ある時は私も、アイラと同じように、母に質問しました。「ねぇ、人は死んだらどうなるの。」
肝心の母は、「さぁ。どうなるのかしらねぇ。」と答えたように記憶しています。
私たちがこのような問いをする時、もちろん、死体の処置のことを聞いているわけではありませんね。「ああ、人は死んだらね、火葬されて骨だけ残って、骨はお墓に埋められるんだよ。」なんてことは聞いてないのです。私たちはどうしても「死んで終わり」と割り切れないので、このような疑問を抱くのでしょう。輪廻転生にしても天国、地獄にしても、何か死んだ後にも続いていくのではないかという思い、あるいは、死後に行く世界があるのではないかという思いが、人間の心の中にはあるように思います。
クリスチャンになって聖書を読むようになって見つけた言葉ですが、旧約聖書に、こんなことばがあります。「神はまた、人の心永遠への思いを与えられた。」(伝道者の書3章11節)
神が人の心に永遠への思いを与えられた ― 死後のことについて人間が普遍的に考える理由を、聖書から教えられた思いでした。

科学が発達して科学的な思考が好まれるようになった今でも、私たちは天国や地獄があると想定済みのような会話をよくしますよね。小さい頃に、嘘をついたら地獄のえんま大王に舌を引っこ抜かれるぞ、と脅かされませんでしたか。あるいは、こんな経験はありませんか。私が小学校低学年の時に母と公園で遊んでいると、6年生くらいの男子数人が子猫をいじめていたのです。残酷ないじめ方で「やめて!!」と割り込みたかったけれど相手は身体の大きな男子生徒。その時母が「やめなさい。そんなことをしていたら地獄に落ちるわよ。」と叱りつけたんです。私は「本当にそうだ。あんなことをしていたら地獄に行く。」と子ども心に母は正しいと思ったのを覚えています。日本では、昔話の中で主人公が地獄に一瞬落ちるような話があったり、お寺に地獄絵があったりして、日本人は皆結構リアルに地獄を思い描けてしまうのではないでしょうか。
また逆に、誰かが亡くなった際には、「天国に行ったんだよ。」とか「天国で見ていてくれるよ。」、「天国でまた会えるよ。」などと慰めたりします。

私も自然と、良い人は天国に行き、悪い人は地獄に行くという思いを持っていました。天秤のイメージでしょうか。「最後の審判」みたいな席で、その人の生前のすべての行いが秤にかけられて、善行の方が重ければ天国に行き、悪行の方が重ければ地獄に行くというようなイメージを漠然と持っていたように思います。
この天秤モデルは確かにフェアというか、当然な気がするし、地獄を恐れると善行が促されるでしょうから、社会的にもいいのかな、と思うかも知れません。
でもこれだと、死ぬまでどっちに行くか分からないし、実は問題が沢山あります。善行しやすい恵まれた環境に生まれる人もあれば、これで非行に走らないほうが不思議、というような劣悪な環境で育つ人もいます。また、表面的には善行であっても動機が悪い場合はどうか、とか、逆に困っている人を助けるために富む人からちょっと何か盗りました、みたいなタイプの盗みは悪行なのか、とか、善行を促すとはいっても自分で悪いと気付かない悪行はストップできないでしょうし、一生懸命善行を心掛けて一歩一歩進んでいた人が最後の最後にすごい試練にあって、一グラムくらい悪行の方が重くなった場合と、対して努力もしなかったのにそういった試練に合わなかったために善行の方が少しばかり重かった人の場合では不公平ではないか、とか、考えればいっぱい問題があるのです。

私はこういう問題まで小さい時に考えていたわけではないんですが、成長するにつれてどうなっていったかというと、死後のことについての理解が深まるどころか、段々と考えないようになっていってしまった、というのが本当のところです。現代社会では死を身近に感じられませんし、この種のことは知り得ようもないのだ、というような不可知論的な考えになっていたのだと思います。だから逆に「死後の世界はこれです!」と断言するような人がいたとすれば、かえって反発を覚えるというか、断言してしまえる人というのは「ちょっと自分とは違う世界に生きている人」のように思っていました。
でも聖書は、これまた淡々と、「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」(ヘブル人への手紙9章27節)と言っているんですね。死ぬこととさばきにあうことが決まっているなら、やはり死と裁きにどう向き合うか、これは別世界の人だけでなく、やっぱり私たち全員の問題なのです。
このような私が、 22歳の時に、ある本を読みました。その本には、聖書は何を教えているのか、ということが書いてあったんですが、私にとっては目から鱗の本でした。聖書は天国への行き方を実にはっきりと、それも一つだけ、示しているんですね。そしてそれがもう、これしかないな、これが正しいな、これが真理だな、と私に思わせる天国への生き方だったのです。
聖書によると、人が天国に行くか行かないかは、天秤で決まるのではなかったのです。イエス・キリストの十字架が決め手だったのです。人は皆罪人だと聖書は教えます。たとえ天秤モデルだとしても、「私の天秤の悪行の方に何も、一グラムも乗ってません!」と言い切れる人はいないでしょうから、これは納得だと思います。でも「善行を重ねることでは罪を帳消しにできない」、「人は行いによっては救われない」と聖書は言っていたのです。ではどうするのか、というと、神様の方が解決策を備えて下さった、というのが聖書の教えです。神ご自身がイエス・キリストという人となってこの世に生き、罪を一つも犯さないで神の御心のままに生き抜いた末に、自ら罪人の身代わりになって十字架で罰を受ける。この十字架の上で人類の罪がすべてイエス・キリストの上にかぶせられ、神の罰がイエスの死刑という形で断固として執行されたので、イエスを信じる人は神から赦される、と。神は罪を水に流したのではありません。公正な、正義の方である神は悪を良しとされません。でも、愛である神は、罪のゆえに人が滅ぶのを望まれない。このジレンマとも思える状況を、全知全能の神はどう解決されたか、それが十字架です。罪をしっかり罰することと罪人を救うことは、自らが人となって罰を代わりに受けるという形で完璧に解決されたのです。
私は、「この種のことは知り得ようもないのだ」と、死後のことについて考えないようになっていった、と先述しましたが、確かに自分の頭の中で考えていただけでは、知り得ようもないのです、神が人となったなんて。自らを十字架に磔にするほどに神が人を愛されているなんて。そんなことは思いつきもしませんでした。でも聖書はそれを知らせているのです。
まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」 神はこれを・・・私たちに啓示されたのです。」(第Ⅰコリント2章9、10節)
キリスト教は啓示宗教です。神が啓示されたことを信じています。人が考え出したことではありません。

私が頭に思い描いていた天秤モデルでは、ちょっと考えただけでも問題がいっぱいありました。死ぬまでどっちに転ぶか分からない、というのもその一つでした。でも聖書の言うように、人が天国に行くかどうかがイエス・キリストの十字架にかかっているのだとしたら、それはもう歴史的に終わった事実ですから、天国行きは信じた時点で確定するのです。この「確定している」というのが、クリスチャンが希望を持って、喜びを持って生きれる理由です。不安はないのです。心配はないのです。これを聖書は、イエス・キリストの福音、と言っています。福音、幸福の音、グッド・ニュースという意味です。

この福音を信じるためには、聖書が信頼に足る書物か、という根本的な問題がクリアされないといけないでしょう。聖書の信頼性に関しては、またいつか時間がある時に改めて投稿します。それまで、皆さんが御自分で聖書を手に取り、聖書が何を言っているか、御自分の目で確かめていただきたいと思います。そして、聖書の教えと真っ向から取り組み、「悔い改めて福音を信じなさい。」というイエス様の呼びかけに応答してくださるようにと願っています。どうかこのブログがその一助になりますように・・・
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和馬の部屋で室内サッカーをするのが流行っています。イングランド代表気分の子供達。

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