2012年3月9日金曜日

聖書の視点

昨日、息子の幼稚園で月2回ほど行われている、お母さんのための聖書の会がありました。
私の大好きな会。
昨日は幼稚園の理事をされている牧師先生を招き、話を聞きました。先生は昨日投稿した「出エジプト」から話を始めて、「裁きと印」という聖書の視点について教えてくださいました。とても良かったので自分のことばで紹介したいと思います。(自分なりにまとめました。あくまで文責モメ子です・・・)

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エジプトの奴隷となっていたイスラエルの民を、エジプトから脱出させる際、神様はエジプトに10の災いをくだされた。(ナイル川の水が血になったり、蛙などが大量発生したり、雹が降ったり、ついには子供が死んだり。)人間は悪いことが起こると、「悪いことをしたから裁かれているのだ」という発想をしやすい。でも聖書の出エジプト記をよく読むと、これら10の災いは、裁き(神罰)というよりも、印(しるし、サイン)として扱われている。つまり、神がおられること、神がパワフルであられること(やろうと思えばエジプトの王など一瞬で殺すこともできた全能の方)、神が正しい方であられること、神が従うべき方であられること、などをイスラエルの民にも、エジプトの民にも、はたまた聖書を読むすべての人にも、分からせるための印 という要素が強かった。

また、聖書にはヨブという人物が登場する。ヨブは地球上で一番正しい人、と神様も認めるような人だった。ある時、天で神様とサタンの間にこのような会話があった。
サタン:「ヨブが正しいのは祝福されているからです。裕福でなくなったり、健康でなくなったら神をのろうでしょう。彼の正しさを試してもいいですか。」
神様:「よろしい。」
そして、その通り、ヨブは財産を失い、息子、娘を全て失い、体中に悪性の腫物ができて、極度の苦しみの中におかれてしまった。
そこへ、ヨブの友人がやってきて、初めは慰めようとするが、そのうちに、「何か悪いことしたんじゃないの。何か罰を受けているんじゃないの。」という理論に発展してしまう。

ヨブの友人でなくても、人間は悪いことを、何かの罰、呪われている、自分のせい、あるいは先祖のせい、などと考えがち。でも、このように不幸を「裁き」とする視点しか持っていないと、余計な苦しみを味わったり味わわせたりすることになる。ヨブも、既に味わっている苦しみに加え、「悪いから裁かれているんだろう」という酷い言葉に、二重の苦しみを負う羽目になった。

でも、ヨブ記から明らかなように、ヨブは正しい人だった。ヨブの苦しみは自業自得ではなく、むしろ、正しい人だからこそ、選ばれてそのような目にあったと言える。ヨブならばこの試練にも耐えられる、ということを神様がご存知で、人一倍正しいが故に、人一倍大きな試練に会った、と聖書は語っているのだ。苦しい目に会っている人は、後ろ指さされるどころか、むしろ尊敬に値する人なのかも知れない。

新約聖書のヨハネの福音書9章1から3節にある、盲目に生れついた人に対するイエス様のことばも他に類を見ない:
「(この人が盲目に生れついたのは、)この人が罪を犯したからでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。」
これも「印」の視点であって「裁き」ではない。

このような視点は聖書にしかない。

他のどの宗教も、「○○が悪かったせいだ」と裁きの要素をまず認めてしまって、だから「この壺を買いなさい」だとか、「祈りますから祈祷料を納めなさい」だとか、「どこそこに参拝せよ」だとか、「埋めてしまった××を掘り起こしなさい」だとか「先祖を供養しなさい」だとか、何らかの解決を与えようとする。

でも、キリスト教は違う。聖書を読むと、それとは全く違う視点が与えられる。

聖であって、正しく、愛であられる神様が、一人一人を知った上で、一人一人を選んで人生の中で御業を行われる。この視点があると、苦しみの中にも意味が見い出せ、主なる神様との交わりがあり、感謝さえ生まれる。「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。(詩篇119篇71節)」の聖句を、事故で首から下の自由を全て失った星野富弘という詩人が自分のことばとしているのも、そのためだろう。

三浦綾子という小説家も、病気のデパートと言われるほど様々な病気に苦しめられた女性だが、その苦しみの中から、人をイエス様に出会わせるような素晴らしい小説をいくつも生み出した。彼女自身、「私は選ばれているのね。神様から期待されているのね。」と言っていたらしい。

つい「裁き」の視点だけに傾きがちな私たち。日々聖書から教えられ、このような「裁き」と「印」の両方の視点を常に持ち、すべてのことに感謝する、良いサイクルの中に生きたいものである。

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牧師先生の話はとても分かりやすかったです。人身売買されてしまうような国や、食べ物や安全な水のない国にいる人たち、震災にあった人などに比べたら、私たちの苦しみはたかが知れている、と言ったらそれまでかも知れませんが、でも、皆それぞれ、人生に苦しいことがあります。特に、子供の障害や流産などの経験と向きあっておられるお母さん達もいる会ですから、聖書の視点にはぐっときて、涙が出そうになりました。牧師先生、ありがとう。私の大好きなお母さん仲間たち、毎日頑張りましょうね。

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