2012年6月11日月曜日

Before & After

「ビフォア―・アンド・アフター」と言えば、ダイエットをする前と後の写真とか、住宅をリフォームする前と後の写真を紹介する時に、テレビや雑誌でよく使われますね。私たちはその劇的な変化にびっくりしたり、感心したりするわけです。

今日のお題のビフォア―・アンド・アフターは、イエス・キリストが復活する前と後の、弟子たちの変化についてです。

私の通うセント・エブス教会で、毎週木曜の朝に開かれている母親のための聖書の会で、この間マルコの福音書の14章を読みました。そこには、イエスが復活する前の弟子たちの様子が鮮明に描かれています。私たちにとっては、まさに「ビフォア―」の写真と言えます。

マルコの福音書の14章の後半で、イエスはユダヤの宗教指導者によって逮捕されます。これまでにも、イエスは何度か弟子たちに、自分が捕まり、死刑を宣告され、さんざん嘲弄され拷問された上で、実際に死刑を執行されて死に、その3日後に復活すると告げていました。でも、弟子たちにはその真意が分かっていなかったようです。イエスをキリスト(旧約聖書で預言されていた救い主)と信じ、告白していた彼らですが、ローマによって征服されていたユダヤ民族として、もっと政治的な意味での「救い主」を期待していたようなのです。旧約聖書にも、救い主は「永遠の王」、「全世界の主権者」として描かれていたりするので、無理もないでしょう。神から遣わされたこのイエスによって、劇的なクーデターが成功し、ユダヤ民族がローマに代わって全世界を支配するようになるかも知れない、あらゆる奇跡を行なって、その権威と力を証明してきたイエスなら、こんな夢物語も実現するかも知れない、そんな期待があって当然だったのかも知れません。だから、イエスの言う「迫りくる死」も、そんなクーデターの最中に起こる悲劇で、まさに英雄としての死なのだと思っていたのではないでしょうか。弟子の代表格であるペテロは、「私は一緒に死ぬ覚悟です!」と豪語しています。今まで、全てを捨ててイエスについてきたのです。弟子たちの心は燃えていたでしょう。ペテロは本気で最後までお伴する気だったのです。

それがどうでしょう。実際にイエスが逮捕されると、「みながイエスを見捨てて、逃げてしまった。」と聖書にあります。ある者は、着ているものを捕まれたのでしょうか。それを脱ぎ捨てて、裸になって逃げた、とありますから、相当必死です。「自分も捕まっては大変」、「自分も殺されては大変」と、一目散で逃げたのです。また、あれだけイエスと運命を共にしようと息巻いていたペテロはというと、イエスを知らないと3度も言い、イエスとの関わりを全否定するのです。

ユダヤの指導者に逮捕されたイエスは、自分を神と同等にしたということで、冒涜の罪で有罪になりますが、それではローマの裁判では罪にならないので、暴動の首謀者、納税拒否の扇動といった、ローマの指導者にとっても見過ごすことのできない罪をねつ造され、偽証されて、最終的に死刑の宣告を受けます。逃げた弟子たちは、いつローマの当局が、あるいはユダヤの指導者たちが、自分の所にもやってきて、イエスと同罪に定めるかと、びくびくしていたに違いありません。ヨハネの福音書に、弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて、鍵がかけられ、ドアが固く締められていた様子が書いてあります。

ここまでが、「ビフォア―」です。復活の事実を知る前までの弟子たちは、弱く、恐れており、保身に走っています。

弟子たちの「アフター」の様子を知るには、聖書の「使徒の働き」という書物を見るのが一番です。長くなるのでこちらはあまり触れませんが、「使徒の働き」から得られる弟子たちの印象は、大胆で、怖いもの知らず、死をも恐れずイエスを主と告白し、宣教に明け暮れるといったところでしょうか。実際、多くの弟子は、復活を主張し、イエスを主と告白する信仰の故に、迫害され、殺されています。

この違い!何たる違い!

人はそんなに簡単に変われません。「ビフォア―」と「アフター」の間には、弟子たちをこうも変えるほどの、「何か」があったはずなのです。

その「何か」が「復活」なのです。

普通では考えられない死からの復活。簡単には信じられない甦り。でも、「ビフォア―」と「アフター」の写真が、イエス・キリストの復活を裏付けている、とは思いませんか。殉教した弟子たちを見てください。人は、嘘のためには死ねないですよ。復活を本当に信じていたからこそ、死んだのです。

私は、ある本を読んでクリスチャンになりました。その本では、この弟子の変化を始め、復活の証拠が書かれてありました。そのおかげで、私は復活を信じることができました。復活が信じられると、聖書の他の記事も全て受け入れられました。復活を予告し、まさにその通り復活したとなれば、イエスは自分で言っていた通り、父なる神とひとつであったのだろう。神様なら、奇跡を行なえて当然。神様なら、処女から生まれても不思議はない。むしろ、普通に生まれたら普通の人間に過ぎない。などなど。それまでは「信じる」なんて思ってもいなかった聖書の記述が、心から信じられました。この本は英語の本なので、いつか、許されるなら、翻訳したいな、なんて思っています。

「もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われる」(ローマ人への手紙10章9節)

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2月の投稿で、アイラは何でも履いてしまう、と書いた記憶がありますが、それは今も変わりません。「暑い!」と言ってすぐパンツ一丁になってしまう兄のズボンを見つけては、スカートの上から履くアイラ。何でこんなに嬉しそうなんでしょう。。。
母性本能のかたまりみたいなアイラ。毎日、「ベイビー」を寝かしつけたり、本を読み聞かせたり、せっせと母のまねごとをしています。
学校でスプラウトを栽培。夕飯のサラダに入れてね!



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