2012年7月5日木曜日

すこやかでいなさい

今日は、病気について。
「なんで人生には、病気を始めとする、沢山の苦しみがあるの?」という問いは、人間ならば誰でも一度は抱くでしょう。ブッダも、この問いを追及すべく、修行の旅に出たと思います。ましてやクリスチャンであれば、あるいは、キリスト教の信仰を吟味してみようと思っている人であれば、この疑問に、「愛であられる神様がおられるのならば」という前置きがつくわけです。

私も今まで色々考えてきました。そして最近、大病では全然ないけれど、夫が割とすぐに病気になるので、このテーマは私の中ではかなり大きなものでした。病気の本人もすごく辛そうで、何か「試練を通されている」っぽく見えるし、この間は、一瞬、「何か告白していない罪があるからなんじゃないのかしら。」って思ってしまいました。でも、そう思ったすぐ後、3月に自分でした投稿、「聖書の視点」を思い出しましたよ。だから、「本当に人間って『苦しみ=裁き』って考えがちだなぁ。あの話を聞いたときに、違うって学んだはずなのに!!」と、自戒しました。

そんなやり取りが自分の頭の中であったことがまだ新鮮だった先週、我が家での聖書の会で、このみことばが、心に迫ってきました:

「病気にかからず、すこやかでいなさい。」(マルコの福音書5章34節)

これは、12年もの間、ひどい病気で苦しんだ女性に対して、癒しの奇跡が行なわれた後に、イエス様がおっしゃった言葉です。「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。」
なんて優しい、憐れみにあふれた言葉でしょう。これを読んで、私は思いました。「みこころ」の病気は無い!と。神様のみこころは、常に、私たちが病気にかからず、すこやかでいることだ、と。でも、私たちは、罪の結果、本来あるべきではない、どこか狂った、堕落した世界に生きているから、病気は起きてしまう。神様は、病気の細胞が分裂するとき(?)に、一々超自然的な介入をして、奇跡を起こして病気が発生しないようにはされない。言い方を変えると、「雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。」(マタイの福音書10章29節)という聖句で見られるような、「許可的なみこころ」でもって、病気の発生をもちろん把握しておられるし、お許しになるが、「積極的なみこころ」では、私たちに健康でいて欲しいと願っておられる神様なのだ、と。

でも、この女性が、ひどい病気だったからこそイエス様のもとに来たように、病気という、本来「苦しいこと」、「悪いこと」をも、神様は益に変えてくださるのだ、と思いました。

「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」(ローマ人への手紙8章28節)

病気にかかると、かかった故に得られる益も確かにあります。忍耐だったり、謙遜だったり、普段の健康に対する感謝だったり、治してくださる神様に対する感謝だったり。信仰が強められたり、病気になったからこそ信仰を持った、という人も沢山いるのです。

でも、「よし、ブラッシュ木綿子にもっと忍耐を身に付けさせるために、この病気にさせよう」というようなみこころは無い。そうではなくて、「我が娘、ブラッシュ木綿子は、かわいそうに病気になってしまったが、忍耐を得た、という形で、この病気も益に変えよう」、これが神様のみこころではないか。
こんな考えが、心にストンと落ちた先週の聖書の会でした。

これから人生経験を積んだり、聖書をもっと深く学んでいく中で、病気に関するこの考えは、もしかして進化するかも知れません。そして、私の限られた知性と限られた人生の枠の中で、神様のみこころを正しく理解することはできないでしょう。でも、今の時点では、このように聖書から教えられて、夫が今度病気になった時の祈り方も変わってくる気がしています。「神様。あなたのみこころのように、彼をすこやかにしてください。でも、この病気をも、あなたが益にしてくださると信じているので、感謝します。病気で辛い最中の彼も、あなたの優しい愛を感じて励まされますように。そして、早くよくなれますように。」こんな感じで心穏やかに祈る妻でありたいと思います!!

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